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神は人を分け隔てなさらない

使徒行伝10章からのメッセージ

「神は人を分け隔てなさらない」

眞田 治

そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。」

使徒行伝 10章34、35節

 こうやってメッセージを書かせていただいていますが、安息日に教会での礼拝で話す説教とは、内容が異なります。起承転結でいうと、起は同じ聖句、結も同じテーマですが、承と転とについては、書いたメッセージとは異なることを話すようにしています。教会に来て聞いてくださった方々が帰宅なさって紙のメッセージを読んで、復習というよりもむしろ、同じ聖句・同じテーマでも異なった方向から理解してくださり、信仰の幅を広げられるのが願いです。

書くメッセージと話す説教とを別々の筋書きにする場合に、書く際にも聖霊による知恵をいただき、話す際にもやはり聖霊の促しを受けることは、私にとっても大きな喜び、二重の祝福です。主なる神さま御自身が語っておられることを、書いても話しても体験することができます。一語一句メッセージを書くことは単なる原稿ではなく、自分では思いもよらなかった表現を聖霊によって与えていただける、大切なプロセスなのです。

使徒行伝は、しばしば聖霊行伝と称されることがあります。人である使徒たちの言行録であるだけではなく、使徒たちや弟子たちを動かしている聖霊の記録でもあるのです。神ご自身が神の民に聖霊を送り、救いの御業を進展させられました。

今日の箇所は10章ですが、ここでは聖霊だけでなく天使もまた活躍します。聖霊と天使の一番の違いは、聖霊は三位一体の神であり、天使は被造物だということです。だから聖霊は全能者ですが、天使の働きには制限があります。聖霊の主要な務めは人の魂に住んでくださることであり、天使は人の外から働きかけるだけで、内に入ることはできません。たとえば3節には、「ある日の午後三時ごろ、コルネリウスは、神の天使が入って来て『コルネリウス』と呼びかけるのを、幻ではっきりと見た」と記されています。コルネリウスは天使をはっきり見たのですから、部屋には入ることができた天使もコルネリウスの外におり、心に入ることはできなかったと分かります。一方の聖霊は、「ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである」(44~46節)と書かれています。聖霊を受けた人々が習ったことがない外国語(異言)を話したり、聞いたこともない旋律で神さまを賛美したりするので、周囲の人々は大いに驚きました。それは、その人が内側から聖霊によって造り変えられた証拠だったのです。私がメッセージを書く際、「自分では思いもよらなかった表現を聖霊によって与えられる」と先ほど申しましたが、聖霊は人の内に働いて、神についての新鮮な、しかも聖書に基づいた信仰を強めてくださるのです。それに伴って、言葉や行動を変革する「霊の賜物」をも各自に授けられます。聖霊は神ですので、聖霊を受けた人々を神ご自身の権威によって新しくする力があるのです。

天使がコルネリウスに伝えた内容は、ペテロを招きなさいというものでした(10章5~6節参照)。当時ペテロはリダやヤッファに滞在しており、ユダヤ人クリスチャン達との交流を通して伝道していました(9章32~43節参照)。そして主は、ペテロにも同じく幻を示され、異邦人であるコルネリウスから遣わされた人々と共に出かけるよう、啓示なさったのです。

ペテロ自身も語っているように、「ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられて」(28節)いました。彼らにとっては考えられない、常軌を逸したことでした。確かに主イエスさまは地上にご存命中に、外国人のシドンの女性に「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」(マタイ福音書15章28節)と言われたり、二日間サマリアの村に滞在し、「多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じ」(ヨハネ福音書4章41節)るようになったりと、ユダヤ人ではない人々の救いのためにも働かれました。あるいは旧約聖書には、アラム軍の将軍ナアマンが預言者エリシャによっていやされた故事が記されています(列王記(下)5章参照)。主なる神さまへの信仰を守るために外国人との接触が制限されていたのも事実ですが、主なる神さまを伝えるために外国人と交流した事例も、珍しくはなかったのです。当然ペテロもそれらを知ってはいましたが、長年の慣例による思い込みを拭えなかったのでしょう、その固定観念を打破するために、主はペテロに幻を見せられます。使徒行伝10章11~16節。

天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。そして、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」と言う声がした。しかし、ペトロは言った。「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」すると、また声が聞こえてきた。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」こういうことが三度あり、その入れ物は急に天に引き上げられた。

ユダヤ人は、燔祭にする動物として旧約聖書に記された牛や羊・山羊などを食べることはありました。けれども、豚やラクダなどを食べることは禁じられていたのです(レビ記11章参照)。「屠って食べなさい」と語りかけられたペテロが「とんでもないことです」と驚いたのは、無理もないことです。彼は、「今見た幻はいったい何だろうかと、ひとりで思案に暮れ」(使徒行伝10章17節)、「幻について考え込んで」(19節)いました。すると、聖霊の声が聞こえてきます。「三人の者があなたを探しに来ている。立って下に行き、ためらわないで一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ」(19、20節)と。思案に暮れ、考え込んでいたペテロに対する主の御声は、「ためらわないで」だったのです。ペテロに見せられた幻の真意は、ユダヤ人が口にしない物までも食する外国人と共に「ためらわないで一緒に出発しなさい」ということだったのです。主イエスさまの一番弟子であるペテロでさえ、旧来の先入観や常識が覆されるためには、神さまから力強く働きかけられる必要があったのでしょう。

ペテロは3名の使者に伴われ、コルネリウスの屋敷に到着します。ペテロの立場では、ついて行きなさいと言われ、ついて行っただけです。コルネリウスの立場では、ペテロを招きなさいと告げられて、そのペテロを連れて来ただけです。幻に示されたことに従ったのに過ぎません。今後どんなことが起こるか、まだ知らないのです。神に従うというのは、じつは、そういうことです。100%理解できるまで従わないのなら、自分の理解力に頼っているのであって神に信頼していないことになります。100%納得してから従い始めるなら、信仰は要りません。しかし従い続けているうちに、導かれているときの特徴が身について参ります。従うことも導かれることも意味は同じで、従うのも導かれるのも、神さまが前、人間が後ろの関係になります。神さまによって導かれている安心感を保つためには、聖書の御言葉に従うことが基礎だと言えます。

神さまの導きの全容を知らずしてお互いに顔を合わせるペテロとコルネリウスでした。以降の展開を知らないまま、「コルネリウスは親類や親しい友人を呼び集めて待っていた」(24節)のです。彼らに、ペテロは話します。「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。それで、お招きを受けたとき、すぐ来たのです。お尋ねしますが、なぜ招いてくださったのですか」(28、29節)。コルネリウスは天使の幻を見た経緯をペテロに説明し、そして言います。「それで、早速あなたのところに人を送ったのです。よくおいでくださいました。今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです」(33節)と。ペテロの到着を待ち構えていた人々は皆、全員、ペテロによって語られる神の言葉を残らず聞こうとして、神の御前にいました。都合のいいことだけではなく、耳障りの悪いことは聞き流すのではなく、どんなことが語られるのかまだ分からない前から、残らず聞こうとして、でありました。

「恵み」について考えます。恵みとは、受けるに値しない者が、分不相応なすばらしいものを無償で与えられることです。お恵みによって与えられる賜物は受け取る者の能力や度量よりも大きいので、その真価を充分には計り知ることができません。ときどき私たちは、予想を超えるほど偉大な恵みを授けられると、それが恵みであると気づかないことがあります。「神からの恵みとはこういうものだ」と小さく見込んでいると、余りにも豊かに与えられたときに、驚いて「これは恵みではない」とか「私は神さまから祝福されていない」とかと勘違いしてしまうのです。コルネリウス達の「残らず聞こうとして」いた信仰は、恵みを恵みとして受け取るのに理想的な姿勢です。神から授けられるものをすべて受け容れようと、「神の前に」彼らはいたのでした。そうです。主なる神から来るものは、すべて恵みです。私たちには都合が悪く感じられることでも、神から来るものは恵みです。それを彼らは待ち望んでいました。

コルネリウスの証しを聞いたペテロは、口を開いて言いました。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」(34、35節)。「神は人を分け隔てなさらない」という箇所は、翻訳によって「神は人をかたよりみない」、「えこひいきする方ではなく」等となっています。その事実を、コルネリウスの証しによってペテロは悟ったのです。知識としては知っていたかも知れませんが、実際に得心したのは、この時のことです。

ここでの出来事は、キリスト教の宣教史における大事なポイントです。ユダヤ人が救われる条件も異邦人が救われる条件も同じで、主イエス・キリストによるということに、教会のリーダーであったペテロが気づいたのです。これ以前にも8章で、エチオピアの宦官にフィリポがバプテスマを授けた際のことが記録されていますが、その後のフィリポの伝道活動については、くわしくは記されていません。一方のペテロについては、コルネリウスの件が異邦人伝道に多大な影響を及ぼしたことが、11章に描かれているのです。神は人を民族によって異なる条件で救われるのか、あるいは、神は人を分け隔てなさらないのか。もちろん正解は後者ですね。教会はその恵みの中で信仰によって前進していくことになります。

では、どんな人でも主イエスによって救われるという際、主は、どのような方法で私たちを救ってくださるのでしょうか。ペテロの説教の続きを読んでみましょう。10章36~43節です。

「神がイエス・キリストによって―この方こそ、すべての人の主です―平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、あなたがたはご存じでしょう。ヨハネがバプテスマを宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」

主イエスを信じるのに、どのように信じれば救われるのでしょう。聖霊と力によって油注がれた御方であり、悪魔によって蹂躙されていた人々を助け出された主イエスさま。私たちの罪の責任を負って十字架で命を断たれ、そして三日目に復活されたイエスさま。その御方を信じる者はだれでも、分け隔てなく、罪の赦しが受けられます。ペテロ達のように先祖代々旧約聖書の話を聴いてきたユダヤ人であっても、コルネリウスに誘われて初めて聖書の話に耳を傾けた異邦人の友人であっても、救われる条件はえこひいきなく平等です。主イエス・キリストの実像を信じることなのです。

今日のメッセージの中で、幻や天使によって示されるという例が何ヶ所かありました。私たちは、夢だとか幻だとか、なにか預言者っぽいという理由だけで安易に信じ込まないほうがよいことにも、留意しなければなりません。申命記13章2~4節には、「預言者や夢占いをする者があなたたちの中に現れ、しるしや奇跡を示して、そのしるしや奇跡が言ったとおり実現したとき、『あなたの知らなかった他の神々に従い、これに仕えようではないか』と誘われても、その預言者や夢占いをする者の言葉に耳を貸してはならない。あなたたちの神、主はあなたたちを試し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたたちの神、主を愛するかどうかを知ろうとされるからである」と勧告されています。偽物の預言者、あるいは神から与えられたのではない夢や幻は、主なる神さまを私たちが愛さないことによって見極められるというのです。では主なる神さまを愛している特徴が何かというと、イエス・キリストを信じていることです。ヨハネ福音書14章9節で、イエスさまは御自身と父なる御神との関係について、「わたしを見た者は、父を見たのである」と語られました。11節では、「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい」とも言われました。主イエスを知ることによって父なる神が分かるのです。あるいは主イエスさまがなさった御業によって、父なる神を知るのです。

このメッセージの冒頭では聖霊についても書きましたが、主は、「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが語ったことをことごとく思い起こさせてくださる」(26節)とも告げておられます。聖霊が降ると、主イエスの御言葉を思い出させる。言い換えれば、主イエスさまに反する教えは、聖霊によるのではありません。

まことの神を知ろうとする際、夢や幻、または霊的現象(奇跡やしるし)に頼り過ぎるなら、しばしば危険が伴います。重要な点は、主イエスさまです。主イエスさまを指し示していることが、誤りに陥らないために肝心なのです。そして、イエスさまを信じることによって、だれでも分け隔てがなく救われます。「この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる」のです。そうです、「だれでも」です。なぜなら神は、人をかたより見ない御方だからです。救いから遠く離れているように思われる方々のことも、神はキリスト・イエスの下に携え来ようとしておられます。

イエス・キリスト。「―この方こそ、すべての人の主です―」(使徒行伝10章36節)。「主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように」(黙示録22章21節)。アーメン

(2020/07/17)

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