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変容する宣教

使徒行伝13章からのメッセージ

「変容する宣教」

眞田 治

パウロとバルナバが会堂を出るとき、人々は次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼んだ。集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神をあがめる改宗者とがついて来たので、二人は彼らと語り合い、神の恵みの下に生き続けるように勧めた。

次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。主はわたしたちにこう命じておられるからです。

『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、

あなたが、地の果てにまでも

救いをもたらすために。』」

使徒行伝 13章42~47節

子どもの頃、書棚に『あるぷす大将』(吉川英治著)という小説がありました。「お父さんが子どもの頃に読んだ本だ」と父が言うので、少し読んだことがあります。主人公の男性は学校の先生で、時代は戦前、昭和初期です。先生も生徒も校庭に集まり天皇陛下の御真影を拝する場面があるのですが、主人公だけ立ったままで天を見上げ、頭を下げません。理由を問われ、答えます。「自分はクリスチャンだ。天地万物の創造主の他には神はなく、神だけを礼拝する。自分は今、天に顔を向けて祈っていた」と。それを聞いた人が再び質問します。「クリスチャンの教師は他にもいる。彼らは欠席したり退席したりして、この参拝の場に居合わせないようにしているのに、あなただけは、なぜ、この場に来るのか」。それに主人公は答えるのです。「自分は筋金入りのクリスチャンだ。天皇を拝する場にいるからと言って、信仰が失われるわけではない。堂々と来て、堂々と顔を天に向け、まことの天の神に堂々と祈ればよい。たとえ周囲の人々が、人間に過ぎない者を拝んでいたとしても」と。

当時小学生だった私は、ここまで読んで、読み進めることができなくなってしまいました。「筋金入りのクリスチャン」という思想が頭を離れなくなったのです。私の実家はまだクリスチャン家庭ではありませんでしたので、信仰によってそう思ったというより、人生というか、生き方として、逃げも隠れもしない、信念を曲げない、そこに感じ入りました。時代背景もなんとなく理解できて、迫害の足音が聞こえつつある中でも妥協なく、かつ自由に生きる主人公に、ある種あこがれを抱きました。

私は夏になると、戦争とか、戦時中の教会弾圧のことを考えるのですが、今年はふと、その『あるぷす大将』を思い出したのです。調べてみると、1934年(昭和9年)の作品だそうです。すでに絶版になっています。本屋さんでは買えません。古書店や図書館になら置いてあるのかも知れませんが、まだ探しておりません。私の実家でも、引っ越しの際に他の物品と一緒に処分してしまいました。(ここまで書いておきながら恐縮ですが、先ほどのエピソードは、他の小説だったかも知れません。皆さまの中でお心当たりの方や、その本をお持ちの方は、お声かけくだされば幸いです。)

信仰には必ずしも苦難が伴うとは限りません。「悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです」(第一ヨハネ書3章8節)と言われている神の御子ご自身が、「蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない」(ルカ福音書10章19節)と約束してくださっています。その約束に頼り、「我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」(マタイ福音書6章13節)と私たちは祈らなければなりません。けれども、やはり、痛みを被ることがあります。使徒パウロもそうでした。「ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した」(使徒行伝13章45節)と冒頭の聖書箇所にも記されています。場所は現在のトルコ国アンティオキアです。異邦人伝道の前線基地「シリアのアンティオキア」に対し、「ピシディアのアンティオキア」とも称される街です。パウロ宣教団は、シリアのアンティオキアを発ち、地中海に浮かぶキプロス島を経て(13章1~12節)、今のトルコ国の南岸に位置するペルゲに上陸し、小アジア半島の中央にまで移動、「ピシディア州のアンティオキアに到着した」(14節)のでした。迫害がエルサレムで強まり、クリスチャンたちは方々に散って宣教するようになり、海路・陸路これほど遠方にまでやって来ましたが、それでも反対を受けたのです。

大切なことは2つあります。1つめは、主の守りの中にいることです。先ほどの第一ヨハネ書3章8節・ルカ福音書10章19節・マタイ福音書6章13節などの御言葉に信頼し、主の権威によって保護されている私たちです。例の小説の主人公には、患難をも恐れない信仰が身についていたようですね。2つめは、それでも困難が生じた場合の対応です。使徒行伝に描かれているいくつかの実例は、試練は方向を変える機会であることを示唆しています。

それは安息日、会堂での出来事だったと聖書は言います(14節)。聖書朗読の後、会堂長に乞われ、パウロは会衆に向けて語り始めたのです。16節から41節まで続く長い説教のうち、前半の25節までは、モーセから始めてバプテスマのヨハネに至る、イスラエル民族の歴史です。そして26節以降、主イエス・キリストを信じるようにと勧める、二部構成になっています。会衆の多くがユダヤ人だったので旧約聖書の流れも丁寧に語られますが、主題はやはり、キリストの福音です。キリストを証しする際に旧約聖書からの引用が目立つ(33、34、35、41節など)理由も、聴衆の多くがユダヤ人だからです。

パウロの説教の中身については、今日は簡潔に済まさせてください。私のメッセージの中心テーマは、その説教の後の人々の反応を受けた、パウロたちの対応から学ぶことにあります。

では、パウロの説教に続く場面を、読んでみましょう。使徒行伝13章42~52節です。

パウロとバルナバが会堂を出るとき、人々は次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼んだ。集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神をあがめる改宗者とがついて来たので、二人は彼らと語り合い、神の恵みの下に生き続けるように勧めた。

次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。主はわたしたちにこう命じておられるからです。

『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、

あなたが、地の果てにまでも

救いをもたらすために。』」

異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。こうして、主の言葉はその地方全体に広まった。ところが、ユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した。それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。

この前週の安息日、パウロは依頼されて人々に話しました(15節)。そして、「次の安息日にも同じことを話してくれるようにと」頼まれ(42節)、さらに翌週、「ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た」(44節)のでした。求められるままに語ったのであり、多くの人々が自ら主体的に集まって来たのです。「しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した」(45節)のです。この場合のユダヤ人とは、パリサイ派とか律法学者とか呼ばれる系列の方々であり、一般的なユダヤ人を指すのではありません。一般ユダヤ人とパリサイ派ユダヤ人の違いについては、神学的にも歴史的にも重要な示唆を含んでおりますので、回を改めて(使徒行伝14章からのメッセージで)詳しく書かせていただきます。いずれにせよパウロは、要請されて話しただけなのに、反対されてしまいました。

「出る杭は打たれる」ということわざがあります。正しいか正しくないかに関わらず、他者と異なることをして注目を集めるなら、ねたみを買って抵抗に遭うのです。主イエスが裁判にかけられた際、百戦錬磨の総督ピラトは、「祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かって」(マルコ福音書15章10節)いました。イザヤ書14章14節の「いと高き者のようになろう」は、天使長ルシファーが罪に陥り悪魔になり下がった要因が、御子キリストをねたんで自分も神のようになろうと高ぶったことを指す聖句であると言われます。太初の罪の発端も、罪を御子が背負わされた経緯も、ねたみの問題だったのです。他者と自分を比較して他者を陥れようとしたり自己賞揚したりするのは、罪そのものに他なりません。

「出る杭は打たれる」と言われます。しかし一方、「出過ぎる杭は打たれない」とも言われます。当初は打たれるでしょうがそれでも出続けるなら、やがて打たれなくなります。その意味で、パウロは出過ぎる杭でした。筋金入りのクリスチャンでした。福音を語って反対されても、堂々と立ち振る舞います。

「そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。『神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く』」(使徒行伝13章46節)。

これまでも福音が異邦人に伝えられたことはありました。8章のエチオピアの宦官や、10章ではコルネリウスに対してなどです。しかしユダヤ人であるパウロとバルナバが意識的に外国人を対象にして伝道を始めるのは、これ以降でありました。どんなに喜んで人々が耳を傾けていてもユダヤ人が反対するのなら、もはやユダヤ人は「自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている」(46節)のですから優先順位が下がり、異邦人に「救いをもたらす」(47節)ことこそ第一目的になるのです。それをパウロは、勇敢に(大胆に)宣言します。反対されても立ち止まらず、方向を変えて宣教を続けます。使徒行伝に描かれている実例は、試練は方向を変える機会であることを示しております。

今日のメッセージのタイトルは「変容する宣教」といたしました。変容は、英語では“Transform”。左から右にガラッと変わる変化と比較して、途中経過を含め多様性があるのがtransform、変容です。「変容する宣教」は“Transforming Mission”の和訳になります。『使徒行伝』全体の主要なテーマのひとつがこれではないかと私は思っています。先ほどのパウロの一件ですと、おもな伝道の対象がユダヤ人から異邦人へと移ったのですが、もう二度とユダヤ人へは伝道しないというわけではなく、もちろん今後もユダヤ人にも福音を伝えますが、先のものが後になり、代わって異邦人が、後のものが先になる、宣教の主要な対象になる。そういった意味で、変化“Change”というよりも変容“Transform”であります。

2020年の私たちも、変容の時を迎えています。おもな要因はコロナ禍です。健康セミナーや講演会などで大勢に集まってもらうことをイメージした伝道方法を、計画しづらくなりました。そんなイベント企画を金輪際しないというわけではありませんが、あてにならないのです。集まらなくてもよい、または少人数が集まることを前提にしなければなりません。

『アドベンチストライフ』誌9月号に、「コロナ禍における強いられた恵み」という特集記事があります。「強いられた」とうのは、否応なしに、というところでしょうか。計画的にではなく結果的に、そうならざるをえなかった恵みです。パウロとバルナバも、要請に応えて語っただけなのに反対され、ユダヤ人に伝道するのが困難になり、方向を異邦人の側に移行せざるをえなくなりました。しかし、「こうして、主の言葉はその地方全体に広まった」(49節)のです。宣教の方向性を変容するように強いられたことは、人間にとっては「結果的に」でしたが、主の御目には、より多くの人々に御救いがもたらされるための御計画でした。今般のコロナ禍によって強いられた恵みがあるとすれば、そこにもまた、主なる神さまの御摂理が含まれているのではないでしょうか。

私たちは、伝道の方法を変えざるをえません。大勢が集まることよりも、ひとりひとり、あるいは少人数がコンセプトです。手紙やインターネット、一対一の交わり、助けを必要としている方々への個人的な奉仕など、できることはたくさんあります。

確かに主イエスさまは、5000名もの人々が集まる講演会でも御言葉を語られたことがあります。しかし、それは人間の視点では結果的な人数に過ぎず、来場者数の目標が事前に掲げられていたのではありません。主イエスさまと弟子たちとは、貧しい人に親切にしたり病人を癒したり、個人的な問題に応えたりした、その結果が5000人になったのです。私たちは今、主イエス御自身の方法に立ち返らなければなりません。大きな企画から小さな交わりへと、宣教方法のポイントが変更されなければなりません。それが、主の御計画ではないかと思うのです。そして、その御計画に従うことで、人間の目には結果的にですが主の御目には御計画どおり、いっそう豊かな恵みを経験させていただけるのではないかと期待しています。伝道の方法が変われば、救いを受け入れる人の顔ぶれも変わります。今までの方法では福音が届かなかった方々にも信仰が根付くようになることが、当然ありえます。まず皆さん、ぜひ祈ってください。恵みを恵みとして、御心を御心として受け入れるには、お祈りが不可欠です。今の仙台教会に主なる神さまが備えてくださっている伝道計画が進められるよう、そして私たち一同が、勇気と信仰とをもって宣教の変容をさせていただけるよう、祈っていただきたいのです。

パウロたちが異邦人伝道へと舵を切ったことで、「主の言葉はその地方全体に広まった」(49節)のです。ところが、「ユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した。それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた」(50~52節)と記されています。信じる者は信じて喜び、信じない者は主の働き人を迫害する。中間はありません。どちらかに分かれます。

「足の塵を払い落とし」とは、「あなたたちの救いのために、我々は全力を尽くしました。あなたたちが救われても救われなくても、もはや我々には責任がありません。あとはあなたたち自身の責任によって信仰の選択をしてください」という趣旨です。マタイ福音書10章14節などで、主イエスも同じことに言及しておられます。私たちは、いま置かれている伝道地―仙台市・宮城県―にて、そう宣言できるほどに全力を尽くしたでしょうか。今までの方法で難しいのなら、八方手を尽くしてでも、手を変え品を変えてでも、福音を宣べ伝えてきたでしょうか。

福音を宣べ伝えましょう。まことの王キリストが告げ知らされていれば、どんな伝道方法であるとしても、福音は福音です。どんな方法でも、キリスト・イエスが高く掲げられているなら筋金入りの宣教です。主の御言葉と聖霊に信頼し、信仰の一歩を踏み出したいと思います。

(2020/08/21)

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