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主の名を伝える器として

更新日:2020年8月21日

使徒行伝9章からのメッセージ

「主の名を伝える器として」

眞田 治

すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。」

使徒行伝 9章15節

使徒行伝9章の前半には、後にパウロと呼ばれるようになるサウロの回心の出来事が描かれています。天におられる主イエスから語りかけられた「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」(4節)との御言葉は有名です。

しかし、サウロとイエスさまとの出会いについて扱う前に、当時のクリスチャンがどう呼ばれていたかに目を向けます。聖書で最初に「クリスチャン」とか「キリスト者」とかいう呼称が登場するのは、使徒行伝11章26節で、「このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになった」と書かれています。つまりこれ以前は、キリスト者は存在していてもキリスト者という用語は使われていなかったことが分かりますね。では、今日の箇所である使徒行伝9章の時点では、どう呼ばれていたのでしょうか。順々に挙げていきましょう。

「弟子たち」(1、38節)、「この道に従う者」(2節)、「聖なる者たち」(13、32、41節)、「御名を呼び求める人」(14節)、「この名を呼び求める者たち」(21節)、「兄弟たち」(30節)、「信者」(31節)。

見落としがあるかも知れませんが、以上だと思います。これらの中で「弟子」・「兄弟」・「信者」というのは、しばしば使われますよね。「聖なる者たち」は「聖徒たち」とも訳されます。セブンスデー・アドベンチスト教会ではメンバーのことを信徒とか教会員とかと呼びますが、キリスト教の他の集会によっては聖徒というところもあります。

そして、先ほど列挙した中で特に注目したいのは、「この道に従う者」・「御名を呼び求める人」・「この名を呼び求める者たち」です。イエス・キリストに従う人たちは、世間から「この道に従う者」と呼ばれていました。信じて従う生き方は「この道」でした。イエスさま御自身が語られた「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ福音書14章6節)のとおり、「この道」とはイエスさまのことであると言うことができます。私は子どもの頃に剣道を習っていたのですが、剣道とか柔道とか書道とか、「道」が付く修練をしている人たちが立派なのだと誇っていました。しかし、そうとは限らない現実に気づいたことは、大人になって主イエスさまに出会っていただく伏線だったと思っています。「この道」は、永遠まで続く、しかも永遠に続くことが喜びである、主に従う道です。

それから次の、「御名を呼び求める…」です。「この名」とか「御名」とかは、もちろんイエス・キリストという御名前ですね。ある方が言っておられました。困ったことが起こった時に、「神さま」と呼びかけるよりも「イエスさま」というほうが、気持ちが平安になると。神には靖国神社の神もあればヒンズー教の神もあるけど、イエスはイエス・キリストのことを指す。だから「イエスさま」と御名前でお呼びするほうが適切だと。それを教えてくださった女性は本当に品性が整えられた信仰の人でしたので、バプテスマを授かって間がなかった頃の私には非常に印象に残りました。そして聖書の学びを深めるにつれ、そのことの真意をも徐々に理解できるようになったのです。以前にも書いたことがありますが、イエスさまは十字架に架けられる前夜、弟子たちに繰り返し語っておられます。先ほどと同じくヨハネ福音書です。「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」(14章13、14節)。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」(15章16節)。「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」(16章23、24節)。主イエス・キリストという名前には、すべてを可能にする権威があるのです。

はい、確かに主イエスさまは、別の角度からも語っておいでです。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るのではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」(マタイ福音書7章21~23節)

主イエスの御名前を使って預言したり悪霊を追い出したり奇跡を行ったりしたとしても、それを根拠にその人が救われていると言うことはできません。天の父の御心を行う者だけが天の国に入るのです。主の御名に頼ることと、御心に沿った生き方をすること。使徒行伝9章の時代の弟子たちが「御名を呼び求める人」と呼ばれたり「この道に従う者」と呼ばれたりしているのは、その両方を彼らが信仰によって実践していたためでしょう。主イエスの死後に弟子になった者が多かった彼らですが、御教えに忠実だったのです。

そのような彼らに迫害の手が及んでいた、ある日のことです。読みましょう。使徒行伝9章1~9節。

さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。

サウロは、この道に従う者たち、すなわち人間を捕まえて処刑しているつもりでした。しかし、捕えられ殺されていたのは主と共なる弟子たちであり、弟子たちへの弾圧は、インマヌエル(神われらと共におられる)であるイエスを迫害していることでもあったのです。弟子たちが苦しむ時、主も共に苦しまれます。神の民である我々が痛む時、主も共に痛んでおられます。「彼らのすべての悩みのとき、主も悩まれて」(イザヤ書63章9節)とも書かれています。

サウロは、「主よ、あなたはどなたですか」と天に向かって尋ねています。それがだれであるか分からぬまま、しかし、主、すなわち神であることは分かり、その主なる神さまに、「主よ」と問いかけたのでした。質問は、その主なる御方がだれかでありました。だから、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と、主は御名前を返答なさいます。

今、聖書を読んだことがない多くの人々が、世の終わりの切迫感を抱き始めています。この世はどうなるのかという疑問、もしも神が実在するのだったらどうしてこういうことが起こるのかという訴えなど、永遠を思う思いを抑えきれない人々がおられます。そんな方々が天を見上げて魂の叫びを上げる時に、どうか主よ、「わたしはイエスである」とお答えになってください。日本人は、あなたさまの御名がイエスさまでいらっしゃるということ自体を知らない人が多いのです。サウロに語りかけられた同じあなたさまが、今も同じく語ってくださいますように。天と地とを隔てている暗黒の雲を貫いて光を輝かせ、救いを求める魂に御名をもって応えてくださいますように。

続きです。使徒行伝9章10~15節。

ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。すると、主は言われた。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」しかし、アナニアは答えた。「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。」すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」

御業のためにだれかがが召し出される際に、新しく用いられようとしているその人のところに、主は、他の人を遣わされます。今回の場合は、サウロのところに遣わされたのはアナニアでした。もしも主が新しい人を救い、その人をして宣教を進めようと計画しておられたとしたら、その新しい人を迎え入れる別の人がいなければなりません。もしかしたら、その新しい人というのは、評判の悪い人物かも知れません。元々キリスト教が嫌いで、むしろ迫害者に近い人かも知れないのです。こんな人が来たら教会が荒らされると思われるような人々が仲間に加えられようとしているかも知れません。あるいは「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(マタイ福音書20章16節)という有名な聖句のとおり、新しく救われた方が今まで奉仕してきた方々よりも御業のために用いられるのかも知れません。サウロもそうでした。そのサウロを受け入れるためにアナニアが遣わされました。サウロはアナニアたちにとって常識に反した人でしたが、アナニアは、迫害者サウロについての予備知識を超えて、主が語られた御心を選んだのでした。

プロ野球の監督を長く務められた野村克也さんが亡くなったのは今年2月11日のことです。その後しばらく、「野村の名言・格言」なるものを振り返る記事を新聞やインターネットで目にすることがしばしばありました。その格言の第一は、「固定観念は悪、先入観は罪」なのだそうです。私にとって印象深かったのは、日本でも新型コロナウィルスが蔓延し始めた時期になり、それまでの固定観念や先入観が崩れ去る事実を否定できなくなったためです。春になるとプロ野球が開幕するとか、オリンピックは4年に一度とか、常識と思われていた数々の事象が打ちのめされたのです。特に野村さんを好きだったわけではありませんが、あのタイミングで亡くなられたことは、コロナ後の終末を生きる者への預言者的なメッセージだと思いました。世の終わりには、それまでの先入観を超えた出来事が起こるのです。教会とはこういうものだ、伝道とはこういうものだとの思い込みも、じつは固定観念に過ぎなかったと思い知らされるかも知れないのです。しかも世界中が、であります。

アナニアにとっても、サウロについての主の託宣は、固定観念なり先入観なりを放棄させるものでした。福音が世界に伝えられるためには、サウロだけではなくアナニアも、悔い改めを経験しなければなりませんでした。

主はアナニアに語られました。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である」と。

サウロは、器です。なにかを中に盛るための器で、主役は中のものです。器の中身が活かされるためには、器は器に徹しなければなりません。そのためにサウロは選ばれたのです。では、器の中身は、なんでしょうか。聖句は明言します。「わたしの名」です。イエス・キリストの御名がサウロという器に盛られて持ち運ばれるのです。後にパウロとなるサウロは「キリストを運ぶ者」と称されたことがありますが、器としての役割に最後まで徹したのでありました。

間もなく主イエスさまが、地上に戻って来られます。栄光の王国が実現されます。今の歴史が終わりを迎えようとしています。しかし主イエスは語られました。「御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る」(マタイ福音書24章14節)と。終わりの前に、福音が宣教されなければなりません。キリスト・イエスの名が伝えられなければなりません。だから現代においても、サウロのような器が必要です。

「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」(ルカ福音書10章2節)。アーメン、主よ、主の御命令に従って願います。収穫の主の御前に願います。私たちの仙台教会にも、働き人を送ってください。この仙台、宮城県、東北で、たくさんの魂が刈り取られようとしています。そのための働き人を、私たちの教会に増し加えてください。そして主よ、その働き人の1人として、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」(イザヤ書6章8節)。

主の御名が崇められますように。御名の権威が示されますように。イエスさまの御名に頼って祈り、御名の力を味わい知り、ますます御名を尊ぶ人々を召し集めてください。救い主イエスさまの御名によって祈ります。アーメン

(2020/07/03)

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