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バプテスマを受ける

更新日:2020年8月21日

使徒行伝8章からのメッセージ

「バプテスマを受ける」

眞田 治

道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。「ここに水があります。バプテスマを受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」

使徒行伝 8章36節

使徒行伝7章以前で、キリストの弟子たちの大部分はエルサレムの都で信仰を守っていました。しかし7章の末尾でステファノが殉教した「その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った」(8章1節)のでした。そして「散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた」(4節)のです。約3年半にわたって一都市に限定されていたかのような信仰共同体は、わずか1日にしてユダヤの国中に分散して、さらには隣国のサマリアにまで広がったのです。それは結果的に、しかし主の御心には結果的にではなく計画的に、福音が世界各地に伝えられ始める転換点でありました。

主の御計画が急速に進展する時というのは、人間的な知恵や議論を超えた出来事が、あれよあれよと言う間に起こるものです。人間の視点では残念なこと、ステファノに関しては殺害されたのは残念ですが、人間のその視点を超えて、主は、大いなる御業をなされて、福音が広範囲で告げられるよう導かれたのです。

安息日学校ガイド『神のためにたくさんの友達をつくる』(今年の第3期分)の1ページ目に、「失われた世界を救うことは、私の仕事ではなく、神の仕事だったのです。私の責任は、神がすでになさっていることに協力することでした」と書かれています。この著者はマーク・フィンレー牧師で、現代セブンスデー・アドベンチストで最も有名な伝道者です。その先生が、伝道は神がなさる仕事だと断言しておられます。はい、まったく私も同感です。人の魂が救われるのは完全に恵みによります。人間の仕事ではありません。私は今まで何十名の方々のバプテスマ式を司式させていただきましたが、共通して言えることは、「私(人間)が信仰に導いたのではない」ということです。それらおひとりおひとりを救おうとなさる主の御業を体験させていただいています。すべて恵みなのです。牧師の特権は、そこで起こっている出来事が人間業ではなく神業による恵みであることを、疑いようもなく身近で見聞させていただけることです。たとえば6月27日(土)、仙台教会でバプテスマ式が執り行われます。私は当初6月6日(土)に司式したかったのですが、いくつかの要素を含めて理事会で検討し、27日になったのです。でも、もし6日でしたら、私のメッセージは使徒行伝7章に基づいていましたので、ステファノへの迫害の話でした。それはそれで悪くないですが、27日だと使徒行伝8章で、バプテスマの話で、ぴったりです。そんなことまで私は計算していませんし、説教の内容までは理事会で審議しません。人の知恵を超えた祝福があることを知るのです。これは証しの一部ですが、だれかがキリスト信仰を言い表す度に、そこに聖霊による強力な導きがあり、100%恵みであるとの確信を深めております。

では、マーク・フィンレー先生が言われる「神がすでになさっていることに協力すること」が人間の責任だとは、どういうことでしょうか。講演会を例にとって考えましょう。講演会は教会においては最も大がかりな伝道プログラムです。でも、それが単なるイベントに過ぎないのでしたら人間の業ですので、神の仕事ではなくなってしまいます。神の仕事でないのなら、私たちは恵みを体験できません。「がんばった」という自己満足が残るだけです。講演会は本来、神がなさっていることに人が協力する場でなければならないのです。神に協力させていただく基本は、祈りです。「天のお父さま。今回の講演会によって、驚くばかりの救いの御業を体験させてください。○○さんや◎◎さんを招きたいのですが、どうすれば、あなたの御計画に私たちは協力できるでしょうか」等と祈りながら備えます。無事に成功させるための祈りではなく、示される恵みを恵みとして受け入れるための祈りです。主の御計画が進展する時というのは、人間の知恵や議論を超えた出来事が起こります。それが恵みの経験であると理解できるためには、祈りによる備えが不可欠なのです。そういった人間の側の備え(協力)がなければ、御神の側で備えておられる約束の実現が遅くされることさえあります。講演会の真の目的は、私たち教会員の信仰を結集し、救いの恵みをお互いに共有しつつ、多くの方々に分かち合うことでなければなりません。

今年はコロナ禍のため、6月に予定されていた健康セミナーは中止になりました。10月の伝道講演会については、まだ具体的に決まってはいません。実施するにしてもできないにしても、異なる形のプログラムを組むにしても、私たちの祈りを集中させるポイントが聖霊によって示されるよう願っています。きっと神さまは、人間の計算を超えた御計画を見せてくださいます。

さて、本文に戻りますが、使徒行伝8章では5節から25節まで、サマリアにおける福音宣教の様子が描かれています。サマリア人はユダヤ人と異邦人との混血で、ユダヤ人は彼らを差別的な目で見ていました。主イエスさま御自身による命令なら別として、ユダヤ人のクリスチャンがサマリアの地に伝道に赴くなど、旧来の常識では考えられないことでした。それが、ステファノの殉教に端を発した大迫害によって居場所を失った彼らはサマリアにも足を運ぶこととなり、福音を宣べ伝えたのです。人間を超えた神の御心をここにも見ることができます。

サマリアで伝道した弟子たちの代表はフィリポです。「フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女もバプテスマを受けた」(12節)と記録されています。そこにシモンという名の魔術師もいました。「シモン自身も信じてバプテスマを受け、いつもフィリポにつき従い、すばらしいしるしと奇跡が行われるのを見て驚いていた」(13節)のです。シモンが扱う魔術が悪霊に由来するものかトリックが隠されていたのか分かりませんが、自分がする魔術よりもフィリポによる奇跡やしるしのほうに力があることに気づき、まことの神の権威を認めてバプテスマを受けたのでしょう。

その後、使徒ペテロとヨハネ2名がエルサレムからサマリアを視察に来たのです。そして重要なことに気が付きます。「人々は主イエスの名によってバプテスマを受けて」(16節)いましたが、「聖霊はまだだれの上にも降っていなかった」のでした。そこで、ペテロとヨハネとが人々の上に手を置くと、「彼らは聖霊を受けた」(17節)のです。

バプテスマのヨハネという人物(「ペテロとヨハネ」のヨハネとは別の人)は、自身が授けるバプテスマとイエスによるバプテスマの違いについて、「わたしは水であなたたちにバプテスマを授けたが、その方は聖霊でバプテスマをお授けになる」(マルコ福音書1章8節)と語ったことがあります。本来ならば、主イエスの御名によりバプテスマが授けられると、必然的に聖霊が同時に与えられるはずです。実際の司式に際しても、「愛する○○さん。イエス・キリストに対するあなたの信仰の言い表しにより、私は福音の使者として、父と子と聖霊の名により、あなたにバプテスマを施します」と宣言します。父・子・聖霊なる神は三位一体で働かれるのです。しかし理想的にはその通りでも、現実はそうとは限りません。先に聖霊が授けられたけれども水のバプテスマが遅くなることもあれば、水のバプテスマを受けて月日が経ってから聖霊が降ることもあります。サマリアでの事例は後者でありました。

以前は魔術師だった「シモンは、使徒たちが手を置くことで、“霊”が与えられるのを見、金を持って来て、言った。『わたしが手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、わたしにもその力を授けてください』」(18、19節)。それを耳にしたペテロは、言語道断とばかりに彼を叱責します。「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ」(20節)と。

サマリアでは、バプテスマを受けたクリスチャン達がまだまだ発展途上であったことが分かります。一般の人々は聖霊を受けていませんでしたし、シモンに至っては、聖霊を授ける権能を経済力で買い取れると思っていました。神さまよりも金に力があると勘違いしていたのです。ペテロから叱られて、ようやくシモンは御前に謙遜になります(24節参照)。

バプテスマを受けるのは、それを境に完全なクリスチャンになるという意味ではありません。むしろ聖霊が豊かに働いて信仰の成長が本格的に始められる機会なのです。

私はバプテスマを授けられて27年が過ぎましたが、当時は学生だった私は、教会の人に不満を抱いていました。正確には、安息日の礼拝に来たり来なかったりの方々を理解できなかったのです。でも就職して数ヶ月が経ち、ある土曜日どうしても職場に行かなければならないことがありました。そして、安息日を守るか守らないかの以前に、神を愛し人を愛することのない自分の現実に気づかされたのです。それまでの信仰生活のすべてが暗黒だったかと疑いました。その人が安息日に教会に来ないという理由だけで信仰の友のことを心の中で蔑視にするとは、なんという罪深さでしょうか。けれども不思議な平安に満たされているのが不思議でした。その直後、周囲の皆さんから「眞田くんは表情が柔らかくなった」と言われるようになりました。他者の事情を見下すことも幸い大幅に減りました。クリスチャンとは罪なき者ではなく、おのれの罪を見せつけられて打ちのめされ、絶望の淵で神の御手に触れられる者ではないでしょうか。伸ばされた手が、運命でも偶然でもなく主御自身のものだと気づかせていただいた者たちがキリスト者なのです。

では、私は、そのような平安を味わった後からバプテスマを受けるべきだったのに、急ぎ過ぎてしまったのでしょうか。答えは否です。バプテスマの恵みにあずかり、神の民に加えられたからこそ忠実に安息日を守ろうとして真剣に祈るのです。罪の意識の奥底で叫び祈って、すでに伸ばされている恵みの御手に感づくのです。自分はバプテスマを受けたのだという責任感が祈りの責任感を増し、その過程を主が用いて、恵みを恵みとして受け入れる霊性を強められます。だから、聖霊による品性がまだ充分に整えられていなくても、バプテスマを受けることが許されるのです。

バプテスマを授かる際、理解し信じていなければならない最低限の聖句1ヶ所を挙げるとすれば、ローマ書6章4~6節でしょう。

「わたしたちはバプテスマによってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています」。

「バプテスマ」とは、原語では「浸る」「沈む」という意味です。水の中に入って、水から出てきます。それは、主イエスが十字架で息を引き取られて墓に入れられ、墓から出てこられた、死と復活を象徴するものです。バプテスマを受ける者は、「私は十字架のイエスさまと共に罪を滅ぼされ、イエスさまの復活と共に永遠の命に生き返りました」と、からだ全体で表明します。主イエスさまによって成し遂げられた救いの恵みに、からだ全体が浴するのです。

その実例を、使徒行伝8章26~39節のエチオピアの宦官の記事から学んでみたいと思います。(これは、福音が異邦人に伝えられた、使徒行伝に描かれた第一歩でもあります。サマリア人はユダヤ人と異邦人との混血ですので、明らかな異邦人伝道の初穂は、この宦官だったことになります。)

宦官は、「馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読して」(28節)いました。そこに伝道者フィリポが遣わされます。宦官が読んでいたのは、次のような箇所でした。イザヤ書53章7、8節。

「屠り場に引かれる小羊のように

毛を切る者の前に物を言わない羊のように

彼は口を開かなかった。

捕えられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。

彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか

わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり

命ある者の地から断たれたことを」。

このイザヤ書の預言は、使徒行伝8章32、33節に引用されています。宦官はこの御言葉を読んでフィリポに問うたのです。「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか」(34節)と。屠り場で殺される小羊、しかし黙して口を閉ざす。背きの罪を犯したのは民であるが、命を断たれたのは民の身代りの小羊であった。その小羊とは、だれか。イザヤ自身のことか、あるいは、他のだれかのことか。

信仰の基礎は、だれに着目し、だれを信じるか、であります。また信仰の上級も、だれに着目し、だれを信じるかです。

もちろん私たちは、その「だれか」が主イエス・キリストであると百も承知です。そして私たちは、その同じ主イエスに恵みによって留まり続けることが信仰であることをも承知しておかなければなりません。「自分はイエスさまをすでに信じたのだから、イエスを脇に置いて他のことを優先しよう」と思った瞬間に、その人は信仰から離れ始めています。その「他のこと」が仮にも教会運営であっても伝道方法であったとしても、主イエスが二義的なものに貶められた時点で、すでに名ばかりの信心なのです。使徒パウロも、「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません」(第二コリント書3章11節)等と述べています。

宦官の問いに対して、「フィリポは口を開き、聖書のこの箇所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた」(使徒行伝8章35節)のでした。福音とは良い知らせです。神の御子イエスが私の罪の身代りに御自身を犠牲にされ、私の永遠の命の保証として復活してくださいました。それを信じることで救われるという良い知らせです。

王の王、主の主である御子キリストは、罪に勝利し、サタンの頭を打ち砕いてくださいました。まことの大祭司キリストは、死と復活に続いて天に挙げられ、天から私たちに聖霊を与えてくださいます。キリストはまことの預言者でいらっしゃり、御言葉により私たちを天の御国へと誘ってくださいます。そのようなキリスト・イエスに着目し、信じることで救われる。それが福音です。

フィリポと宦官は、「道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。『ここに水があります。バプテスマを受けるのに、何か妨げがあるでしょうか』」(36節)。

妨げは、なにもありません。なんの差し支えもありません。まことの王たるキリストが妨害者サタンに打ち勝たれましたので、信じる者の行く道を邪魔するものには、もはや敗北が確定しております。主を信じる者は、その道を進めばよいのです。イエス・キリストは神の御子であると信じる者には、神の子とされる特権が与えられています。

「フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官にバプテスマを授けた」(38節)。

信仰の醍醐味を、人生をかけて味わっていただきたいと願います。主イエスさまが再びおいでになるその日まで、そして永遠に、この道を聖霊に導かれて歩んでいただきたいと願っております。

(2020/06/25)

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