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ガマリエルの原則

更新日:2020年8月21日


使徒行伝5章からのメッセージ「ガマリエルの原則」


SDA仙台教会 眞田 治


ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」

これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた。ところが、民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルという人が、議場に立って、使徒たちをしばらく外に出すように命じ、それから、議員たちにこう言った。「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数四百人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた。そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」一同はこの意見に従い、使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。

使徒行伝 5章29~42節



先ほどの聖書の箇所に、ガマリエルという人物が登場いたします。ユダヤ人の教師で議員であり、民衆から尊敬されていたと書かれています。イエスこそ救い主キリストであると証しするペテロたちを殺害しようとする動きを、このガマリエルが説得して止めさせたのです。それはキリストの福音を宣教することについて、「あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない」。だから「あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい」という理由でした。

こういう考え方は「ガマリエルの原則」と呼ばれることがあります。すなわち、旧来の常識とは異なった行動をする人々に出会った場合、それが神の御意志に反していると決めつけないで経過を見なさい、というものです。なぜなら人間に由来するものなら放っておいても立ち消えるし、逆に神に導かれたものなら必ず残るからです。もし神が導いておられるものを邪魔するなら、神に反逆していることになってしまいます。だから、「ほうっておくがよい」。ガマリエルはテウダやガリラヤのユダという人物にも言及していますが、テウダもガリラヤ人ユダも、自称メシアでした。我こそは救い主であると吹聴して世直しに立ち上がったけれど失敗した人達として、当時は有名だったようです。彼らの運動が途絶えたということは神に選ばれた本物の救い主ではなく、偽キリストに過ぎなったのです。もし同じようにイエスが偽物ならばイエス信仰(キリスト教)も同様に自然消滅するはずだから、手出しするのは止めなさい、と。

この原則は、すべてに適用されるとは限らないでしょう。明らかな罪の行為には異を唱えなければなりませんし見て見ぬふりは無責任です。たとえば強盗の現場に遭遇したと仮定して、容疑者が「神の声に従って泥棒した」と勝手な弁解をしたとしても、私たちは目撃したことを警察に通報しなければなりません。


イエスさま御自身の御言葉に基づいて、「ほうっておくがよい」の原則を少し別の角度から考えてみます。マタイ福音書13章24~30節です。

イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」

いわゆる「毒麦のたとえ話」です。人の食用になる麦に混ざって、有害な毒の種も蒔かれてしまいます。しもべは、毒麦の苗を抜いて焼き捨てることを申し出ますが、主人は麦をも毒麦をも「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」、つまり「ほうっておくがよい」との趣旨で答えます。なぜなら、「毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない」からです。このたとえ話には後で説明がされています。同じく13章36~43節です。

それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」

良い麦によってたとえられる「御国の子ら」(救いを受け入れた人々)は、父なる神の国に最終的に入れていただいて太陽のように輝く栄光に与ります。一方、毒麦によってたとえられる「悪い者の子ら」(救いを拒否した人々)は、燃え盛る炉の中に投げ込まれて、滅びに至ります。そして、麦や毒麦を「刈り入れる者は天使たちである」と語られました。言い換えれば、どの苗が麦でどの苗が毒麦かを刈り入れ前に人間が見抜いたとしても、事前に毒麦を処分することは人間の仕事ではなく、然るべき時期に神から天使に託される御業です。だから人の立場では「ほうっておくがよい」のです。

私は北海道で牧師をしていた頃、友達の田んぼで田植えや稲刈りをさせていただいていました。秋になると収穫の一部を分けてもらいますが、それ以上に、仲間たちと一緒に手で植えたり手で刈ったりする楽しさがありました。そこでは2種類の稲を育てていましたが、私のような素人には、植える春には違いの見分けなど付きません。「この箱の苗はこっちの列に、あの箱の苗はあっちの列に植える」と、農家の人から指示されるがままに作業するだけです。しかし秋になると、2種類の稲の丈の高さにより、違いが明らかになります。田舎館村の名を全国に知らしめた田んぼアートも、苗を植える頃には似たような色合いなのに、実った秋には色とりどりの芸術作品が出来上がります。刈り入れの直前になって品種の違いが鮮明になることは、米でも麦でも、よくあることのようです。

毒麦のたとえ話の中で、畑の主人は、「毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」と語ります。目が肥えた人の目には、苗が育つ前でも麦と毒麦の違いを見分けることができるでしょう。しかし、しもべたちの中には、それらを判別できない初心者がいるかも知れないのです。麦を数把でさえも毒麦と一緒に抜いて火で焼いてしまうなら、取り返しがつかない結果になります。なぜなら収穫の目的は毒麦の滅びより麦の救いに重点が置かれているからです。すでに救いを受け入れている魂を誤って滅びに陥れる事態は、なんとかして避けなければなりません。どんな人の目にも、どんな天使の目からも、麦と毒麦の差が明瞭になった時に、初めて刈り入れが始まります。可能な限りの魂を天の救いから失わないためです。はっきり違いが判るようになるまで、「両方とも育つままにしておきなさい」。

はっきりさせることを、「裁き」ということがあります。しかし、それは神の怒りではありません。ただ神は忍耐しておられるのです。毒麦が悔い改めて麦へと生まれ変わることを、神は忍耐して待っておられます。可能な限り多くの魂が天の救いに入れられるためです。けれども、その期間に悔い改めなければ、「持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」(13章12節)という聖句の後半部分に留まることになってしまいます。違いがはっきりしてきます。それが裁きです。裁きは、私たち1人1人の選択によるのです。すべての人々に悔い改めの機会が残されています。私たちは主イエスさまの信仰の側に、毒麦から麦へと、1日も早く悔い改めて方向転換しなければなりません。「持っていない人は持っている(救いのチャンス)までも取り上げられる」人生から、「(救いを)持っている人は更に与えられて豊かになる」人生へと、世の終わりの刈り入れが近づきつつある今、信仰の悔い改めをしていただきたいと願います。

私たちは日常生活の中で、多くの疑問を抱くことがあります。そのひとつが、不公正です。残念ながらこの世は平等ではありません。確かに神は、すべての人に救いのチャンスを平等に与えてくださっていますが、実際に目にする世界には、公正だとは言い難いものがあります。その例が、悪を行使する人々が平然と暮らし続けている実態です。それどころか、そういう人々が現実社会で実権を握っているという事実すらあるでしょう。神は、なぜ罪悪に留まる人々を早急に裁いてくださらないのでしょう。悪人の罪に、神は気づいていらっしゃらないのでしょうか。いいえ、もちろん神は、罪を罪として認識しておられます。私たちの主なる神は、だれよりも罪を憎まれる御方です。けれど世の中には、その罪悪にまだ気が付いていない方も大勢いらっしゃり、その悪人に好印象を覚えている人々さえ少なくありません。もしも神の天使が早々と毒麦を抜き取ってしまったら、そういう善意の一般の方々の間に、「神は冷たい御方だ、あんな立派な人物を悪人だと決めつけるなんて、神の霊感など疑わしい限りだ」等と、神に対する誤解が広まりかねないのです。神の御名が疑われると、救いのチャンスを狭める結果になります。それを防ぐためにも神は、麦と毒麦との相違がだれの目からも明らかになるまで「両方とも育つままにしておきなさい」と言われたのです。別の箇所でも主は、「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。そのままにしておきなさい」(同15章13、14節)とも語っておられます。


ガマリエルの出来事と毒麦のたとえ話との共通のテーマの1つは、先ほども申し上げた裁きでしょう。ほうっておくがよいと諭された「祭司たちはガマリエルの考えが正当なことを知って、しかたなく彼に同意した。しかし偏見や憎悪をおさえることができず、弟子たちをむち打ち、今後イエスの名によって語るなら二度と命はないと言いわたして、しぶしぶ釈放した」(『患難から栄光へ』第8章より)のです。ガマリエルによる「あの者たちから手を引きなさい」との勧告を正当であると認めたにも関わらず、腹の虫が収まらなかったのかイエスの弟子を傷つけた祭司たち。一方、イエスの弟子たちは、「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた」のでありました。ガマリエルの言葉の後の祭司たちと弟子たちとの行動には、大きな違いがあります。違いが、はっきり明確になります。その意味での裁きです。お互いの行為そのものによって、どちらが神の側であり、どちらが神に反する側か、火を見るより明らかになったのです。

裁きにおいて神は忍耐しておられると書きました。人が悔い改めて救いの側に身を置くのを、神は待ち望んでくださっているのです。使徒行伝の次の章、6章7節には、「こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った」と記録されていますが、5章の段階で主イエスに敵対する側にいた祭司たちの中にも、その後6章7節に至る日々に心の目が開かれ、どちらが神の側であるかに気づいて、キリスト・イエスの信仰へと方向転換をした人々が多くいたはずです。彼らの救いのためにも、ガマリエルの進言は主によって用いられていたのではないでしょうか。


「ガマリエルの原則」の真意は、神の御業に信頼することだと私は考えています。従来の伝統と比較して間違っているように見えても、あるいは、まるで相手を毒麦であるかのように感じても、ゆだねて、必ず救いを成し遂げてくださる主なる神に信頼するのです。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」(使徒行伝5章29節)。

今般のコロナ禍で、私たちは今までのような教会活動や伝道方法を部分的にではあれ見直さなければならなくなると思います。新しい手法やプロセスを、積極的にか消極的にか取り入れざるをえません。なにが神からのものでなにが神からのものでないのかに戸惑った時、迷った時には、ガマリエルの原則に基づいて、まずは立ち止まりましょう。それから見ましょう。よく観て、よく聴きましょう。神の御心がどちら側を向いているのかを、静まって祈り求めましょう。今は悔い改めのチャンスです。すでに主イエスを信じている私たちにも、なんらかの方向転換が求められていると思います。

世の終わりです。コロナウィルスが世を席巻するようになって以来、身震いするほど迫られています。世の終わりです。再臨の主イエスさまが間もなくおいでになります。マタイ福音書13章39節で、主は、「刈り入れは世の終わりのこと」だと語られました。その前の38節では「畑は世界」だと言われました。世の終わりの収穫を前にして、主は世界をご覧になっておられます。私たちは主の手足として御言葉の種を蒔きましょう。福音の苗を植えましょう。それらの種や苗から育った御国の子らと共に私たちが刈り入れられ天に挙げられるその日を、主ご自身が、胸を躍らせながら待ち焦がれておられるのです。

「御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る」(マタイ福音書24章14節)。


(2020/05/14)

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