この名によって
- admin
- 2020年5月8日
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更新日:2020年8月21日
使徒行伝4章からのメッセージ「この名によって」
SDA仙台教会 眞田 治
次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。そして、使徒たちを真ん中に立たせて、「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と尋問した。そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。「民の議員、また長老の方々、今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。この方こそ、
『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、
隅の親石となった石』
です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」
使徒行伝 4章5~12節
5月1日の『河北新報』の投書欄に、栗原市の男性が以下のような寄稿をなさっています。
「天地を創造した神はなぜ、こんなにも美しい装いをこの小さな花に与えたのでしょうか。周りの草の陰になりながらも、毎年美しく花を咲かせ、実をつけて、自然の片隅を構成しながら、日の光に輝いている姿に感動します。
このような光景を見ていると、こう思うのです。神はこの世界を、どんな人でも喜びを感じながら、幸せに生きることができる世界につくったのではないでしょうか。」
『キリストへの道』の「神の愛」の章には、「神は愛であるということが、どのつぼみにも、また、どの草にもしるされています」という一文がある。神によって造られた自然界には、人の幸せを願う神の御品性、神の愛が現わされています。「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます」(ローマ書1章20節)と使徒パウロも語っているとおりです。神の被造世界を見ると神ご自身のことが分かるのです。
詩篇8編を開いてください。最初の節と最後の節とに、同じことが書いてありますよね。「主よ、わたしたちの主よ あなたの御名は、いかに力強く 全地に満ちていることでしょう」。主の御名が全地に満ちています。地球上のあらゆる被造物に、創造主の御名前が書き記されているのです。創造者は所有者でもいらっしゃるからです。
詩篇8編の最初と最後とに同じことが書かれているということは、それらの間に説明を読み取ることができるということです。たとえば、「あなたの天を、あなたの指の業を わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの」とあるように、全地というのは、地球に限らず宇宙をも指しています。天地だけでなく人を造られたのも神さまです。詩篇8編は続きます。「そのあなたが御心に留めてくださるとは 人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう あなたが顧みてくださるとは。神に僅かに劣るものとして人を造り なお、栄光と威光を冠としていただかせ 御手によって造られたものをすべて治めるように その足もとに置かれました」。
神は創造主です。人は被造物です。しかし人が造られた当初、神と人との差は「僅か(わずか)」でした。人は神の似姿に造られたからです。「神に僅かに劣るものとして人を造り」の「わずか」の一語は重要です。神によって造られて神の御名前が記された被造世界を治める(管理する)役割を、神は、御自身に似せてお造りになった人類に託されたのです。人の足もとに置かれるべき「御手によって造られたものをすべて」には、天使をも含まれます。
ところが、神と人との当初わずかだった差が大きくなってしまった出来事が発生します。より正確には、本来は人の足もとに置かれていた存在が、神と人の信頼関係を妨害するようになったと言えます。その存在とは天使長ルシファー、後にサタンとか悪魔とか呼ばれるようになった者です。そしてその出来事とは罪の侵入であります。罪の本質はなにか悪い行為をすることではなく、むしろ関係の断裂なのです。人が神を理解できないように感じる理由は、当初わずかだった距離が、悪魔と罪とによって邪魔され、広がってしまったからに他なりません。冒頭に紹介した新聞の寄稿文は、「ただ、人類は果たして、そのような世界を大切にしようとしているのでしょうか」との問題提起で閉じられていますが、神と人との関係が阻害された結果、御心に沿って自然界を管理することが難しい状態へと人々は陥ってしまったのです。
私たちは、サタンの束縛から解放されて、罪の呪縛から救い出されなければなりません。詩篇8編が伝えているように「栄光と威光を冠として」いただける、主なる神さまにほど近い従来の立場にまで回復することが期待されています。「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます」(ローマ書8章19節)と書かれているとおりです。私たちの頭に主から戴く栄光の冠には、「神の子」とか「神に似た者」とか、「神の犠牲により救われた者」とか、神の御名によって呼ばれる称号が刻まれているでしょう。
被造物には神の名前が記されていると先ほど申しましたが、それは人間についても同じことです。私たちは神によって創造された神の財産ですから、御名前が記されていました。けれどもこの世に罪がもたらされた後、人はサタンの支配下に貶められます。すなわち、罪の下にある人はサタンの名で呼ばれる存在だったということです。そのような人間が救われるためには、サタンよりも力強い御方によって罪の中から助けられ、名前を書き換えていただくしか方法がありませんでした。名は、だれの所有物であるかを示す確かな証拠なのです。
今日の聖句、使徒行伝4章5~12節には、キリストの名についての言及が繰り返されています。読んでみましょう。
次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。そして、使徒たちを真ん中に立たせて、「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と尋問した。そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。「民の議員、また長老の方々、今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。この方こそ、
『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、
隅の親石となった石』
です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」
この箇所で「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」との「ああいうこと」とは、前の3章で足の不自由な男性がいやされた出来事のことです。ペテロが「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(使徒行伝3章6節)と告げ、その男性を主は立ち上がらせたのでした。ですから、「何の権威によって、だれの名によって」との質問への正解は、イエス・キリストの名によって、であります。ペテロは「この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるもの」(4章10節)だと、真実を語ります。
名前には力があります。子どもが小学校に入学する際に、親は子の持ち物に名前を書きます。だれの所有物であるかを示すためです。もしも別の子がその物を盗ってしまっても、本来の管理者がだれであるかを、書かれた名前が証しします。この場合、他人の物を奪う意志があったのか勘違いに過ぎなかったのかは問題ではありません。自分の持ち物を盗られた子が強いか弱いかも問題ではありません。名前を書いた親に力がある。親としての権威がある。そこが大切な点です。だから書かれた名前にも力が生じるわけです。
私たちは神の被造物ですので、神の御名が記された者です。しかしサタンが、いかなる動機であれ、私たちを盗り去ってしまいました。主なる神さまは、記された御名前を根拠に、私たち人間を再び取り戻してくださるでしょう。一方、人である私たちに必要なのは信仰です。ペテロも例の男性について、「あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです」(3章16節)と証言しています。信仰とは、この場合、自分にはキリストの名が記されていることを認めることです。自分で歩く力があるか否かが問題ではなく、神の所有としての立場に自分を置くことが信仰であり、その結果、イエスの名によって強められて歩けるようになりました。名は所有を現わし、力を発揮するのです。
数年前に眠りにつかれた牧師がしばしば語られた証しを思い出します。その方は、戦時中は戦闘機に乗っておられ、何度も危険な目に遭われたのだそうです。そんな折、そう、猛スピードで飛行するわけですから、一瞬の判断、ゆっくり祈っている暇などありません。ただ一言、「イエスさま!」と叫ぶだけで精一杯。「イエスさま」と言う余裕すらない時は、イエスさまのただ「イ」だけを胸に思う。すると、どんな危ない状況でも助けられて、生き延びることができたということです。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほかに、人間には与えられていないのです」(4章12節)。
名前は所有を現わし、力を発揮します。それをサタンも知っています。だから、サタンによって動かされていた律法学者たちは、「今後あの名によってだれにも話すなと脅しておこう」(17節)とペテロたちへの対応を思案し、「決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した」(18節)のでした。サタンの力より強い権威はイエス・キリストの御名であると、サタン自身が知っており、恐れているのです。私たちが完全に救われ、救われる人々が増やされるためには、もっと主イエスさまの御名前に信仰をもって頼らなければなりません。
ところが信仰によって御名に頼るのにも、一定の注意点があります。マタイ福音書7章21~23節を見てみます。主イエスの御言葉、いわゆる山上の垂訓の後半で語られています。
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」
主イエスの御名には力があります。預言したり悪霊を追い出したり奇跡を行ったりできる力です。けれども、その力を行使する人々の全員が天国に入れるとは限らないのです。天の国に入れるのは「天の父の御心を行う者だけ」だと、わざわざ「だけ」まで付けて限定されています。しかもそれは「かの日」、終わりの日、裁きの日です。天の国に入れられる人々と入れられない人とが明確に分けられる裁きの時こそ、「かの日」であります。その時、天の父の御心を行う人々にだけ、永遠の救いが実現します。それは、主イエスの御名を信じ、御名によって「神の子」、「キリストのしもべ」等と称される人々です。けれども彼らは、御名によって預言をしたり悪霊を追い出したり、奇跡を行ったりしたか否かで評価されて裁かれるのではありません。裁きの基準は、御心を行ったか否かなのです。では、御心とは一体なんでしょうか。どうすることが、主の御心に適った生き方なのでしょう。
マタイ福音書7章の、先ほどの聖句の直前、15~20節をお読みいたします。
「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける」。
大切なのは「実」だと言われます。主イエスの名を標榜して悪霊を追い出したり奇跡を行ったりしても、良い実を結ばなければ、その人は偽預言者として扱われます。
では、良い実とは。ガラテヤ書5章22、23節をご覧ください。非常に重要な聖句です。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません」。キリスト・イエスの名を信じる信仰を生きる人は、このような御霊の実を身につけます。努力や精進による成果ではなく、聖霊による恵みとして授けられる品性です。それがなければ天の父の御心を行う者になれないのです。
マタイ福音書7章の、さらに少し前には、次のように書かれています。12節。「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法であり預言者である」。この律法と預言者というのは旧約聖書のことです。先ほどのガラテヤ書5章23節の「掟」も、やはり旧約聖書です。人からしてもらいたいと思うことは何でも、他人にもする。それが旧約聖書の教えであると、新約聖書の中で主イエスが語られます。言うまでもなく、それが「天の父の御心を行う」生き方であります。
生まれつき足が不自由な男をイエス・キリストの名によってペテロがいやしたのも、他人からしてもらいたいと思うことを人にもした出来事でした。その男性は金銭や食糧をもらうことを期待していたのでしょうが、主はペテロを通して、それ以上のことをなさったのです。単なる奇跡ではりません。聖霊の実である愛や親切が、その人の心の奥に秘められた願望(歩きたい)を実現させたのです。
私たちは、預言をしたり悪霊を追い出したり奇跡を行ったりを目の当たりにすることは、あまりないかも知れません。そういった経験が乏しくても、人からしてもらいたいことを人にもして差し上げることはできます。主イエスさまの御名によって信仰をもってそれをするのです。そしてペテロが語ったように、「自分の力や信心によって」(使徒行伝3章12節)ではなく「イエス・キリストの名によるもの」(4章10節)だと宣べ伝えます。「わたしたちは見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」(20節)。
私たちが多くの人々の必要に応える機会が増やされ、イエスさまの名を告げ広める福音の働きが進められるよう、願います。「大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた」(33節)という御言葉が、私たちを通して実現されますように。天地を創造された主の御名が世界で崇められますよう、イエスさまの御名前によって。
(2020/05/07)
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