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私たちの使命

更新日:2020年8月21日

使徒行伝3章からのメッセージ「私たちの使命」


SDA仙台教会 眞田 治


ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」

使徒行伝 3章6節

春の祈祷週テキスト『アドベンチスト信仰の原点3』をお持ちの方は、お手元に開いてください。今日は最後の安息日、「私たちの使命―人々につかわされた者」です。

この本の53ページ上段に「死の家庭」という言葉がありますが、おそらくこれは誤字で、「死の過程」が正解ではないかと思われます。英語の原典を探しましたが見つからないので断定はできませんが、「死の過程」だと仮定して、その過程は次のようなものです。タイ国のある村で、ある家族が主イエスにある自由と喜びを経験して、数年後には、村人の大部分がクリスチャンになったのだそうです。教会が設立され、アドベンチストが運営する学校も始められました。しかし15年後、以前の信徒の多くは教会に来なくなっていました。全村人を伝道してしまったというので、教会が内向的になり、村を越えて外に伝道しようとする幻を失って、内部の争いに精力を使う以外にやることがなくなってしまったためです。

このような出来事は、「使命を忘れたすべての個人、教会、教区、教団、支部、世界総会にも起こりうることです。その原理は普遍的です。使命を忘れる者は、その霊的生命を失います」(『アドベンチスト信仰の原点3』54ページ)。生きているように見えても霊性が死に向かう。そういうプロセスをたどることがあるのです。


大宣教命令というのをご存知でしょうか。復活の主イエスさまが天に挙げられる前、弟子たちに語られた御言葉です。読みましょう。マタイ福音書28章17~20節です。

イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権威を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

大宣教命令の「命令」と言われる中心は、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」です。私たちは行かなければなりません。行く場所や行く方法は、各々で異なると思います。今の日本は非常事態宣言ですので、バスや電車に乗って行くことや密閉・密集・密接な状況も遠慮しなければなりませんね。電話とかメールとかの限られた手段で、言葉だけで伝えることも、「行く」に含まれるのではないでしょうか。伝える相手は「すべての民」です。先ほどのタイの村では、隣の村にも福音を伝えるというビジョンを見失ったことで、霊的な退廃を招いてしまいました。すべての民に自分1人で宣教することはできません。隣の人から、親しい人からが原則です。そしてその目的は、主イエスの弟子にすることです。神の福音によって生まれ変わった方々が主イエスの弟子になるのが大宣教命令の目指すところです。伝える側の人が弟子であるだけでなく、伝えられる側も弟子になります。キリストの命令は約束でもありますから、必ずそのようになるのです。

使命とは、主イエスによって与えられた役割・働き・責任などとも言い換えることができるでしょう。では、その役割や働きを、なぜ私たちは果たすことができるのでしょう。大宣教命令の冒頭で語られているとおり、「わたしは天と地の一切の権威を授かっている。だから」、であります。私たち人間の側の事情とは関わりなく、天と地の一切の権威を授かっている主イエスさまが、その権威によって、宣教を実現してくださるのです。だからキリストの命令は、約束であると言うことができます。


使徒行伝は、大宣教命令が成就しつつある過程に満ちております。霊的生命を失うことを死の過程と呼ぶなら、それは命の過程、命がキリストの弟子として勝ち取られるプロセスです。

使徒行伝2章42~47節をお読みいたします。

彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。信者たちは皆一つになって、すべてのものを共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。

この使徒行伝メッセージの第1回でも申しましたが、「祈ることに熱心であった」は「祈ることに忙しかった」との意味だそうです。弟子たちは、主イエスのことを使徒たちから教えてもらい、互いに交わり、食事や聖餐を共にし、真剣に祈っていました。残念ながら中の2つは、今は控えなければなりませんね。しかし今でもできることがあります。聖書、特に福音書を熟読しましょう。そして祈ることに精を出しましょう。いいえ、ごめんなさい。聖書を読んで、熱心に祈る。それらは確かに大切です。でも、相互の交わりを今は控えたほうがいいと、まるでコロナウィルスが要因であるかのような書き方をしたことは正しくありません。毎日ひたすら心を一つにして神殿に参りとか家ごとに集まってだとか、コロナウィルスとは関係なく、私たちは普段からそういう交わりをしていないのです。ましてや財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて共有するなど、2000年前と同じことを実践するのは程遠いように思えます。自分は聖書どおり生活していると誇る資格は、私たちには、少なくとも私にはありません。聖書によって示された御心に従っていない自分自身に気づきます。だから祈ります。自分には救いに値する要素がまったくないことを知り、キリストに頼る他に希望がない。だからこそ祈ります。祈るのに忙しいほど祈るのです。心の奥底をご存知である主の御前に、心の奥底に潜んでいる弱さを正直に申し述べましょう。魂の貧しさが聖霊によって満たされて私たちが生まれ変わるためには、経なければならないプロセスです。その祈りに、「聖書に書かれているとおりの理想の教会に、仙台教会を近づけてください」という祈りも、ぜひ含めてください。『患難から栄光へ』第6章には、「キリストの弟子たちは自分たちの無能力を深く自覚し、謙遜に、祈りながら、彼らの弱さをキリストの強さに、彼らの無知をキリストの知恵に、彼らの無価値さをキリストの義に、彼らの貧しさをキリストの尽きることのない富に結びつけた。こうして強められ、必要な能力を身につけて、彼らは主への奉仕に臆することなく前進した」と証しされています。

2000年前の教会と文字どおりに同じ教会は、社会が複雑化した現代では難しいかも知れません。けれども、私たちひとりひとりが2000年前の弟子たちと同じ霊性・同じ品性を授けられることは現代でも充分に可能です。当時と同じ聖霊が、今も私たちに臨んでくださるからです。そして、精神・愛・使命において2000年前と同様の教会なら、やはり現代でも聖霊によって形づくられるのであります。その結果、「民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされた」、2000年前と同様の実りをも、現代でも見ることができます。お祈りと御言葉の生活を続けていただきたいと願います。

さて、使徒行伝3章ですね。1節には、「ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った」と記されております。弟子たちは、祈る時刻や祈る場所を決めていたようです。祈りを習慣として身につけるためには、時や場所を定めることが肝要です。それ以外では祈らないとの意味ではなく、継続することで基礎を固めるためには適度なルールがあるほうが望ましいからです。

いつもの時間に彼らが祈りのために神殿に行くと、「生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た」(2節)ではありませんか。冒頭の御言葉「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(6節)は、その男性にペテロが語った一言です。物乞いで生計を立てている彼にペテロとヨハネが与えたものは、金銭や物品でなくイエス・キリストの名によって立ち上がらせ、歩かせることでした。「その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした」(7、8節)のです。それから、驚いて集まってきた民衆にペテロは語り始めます。「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか」(12節)と。生まれながら足の不自由な男が歩けるようになったのは、ペテロの力によるものでもヨハネの信心によるものでもありません。ペテロは話し続けます。「あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです」(16節)。人々は以前から見て知っていました、その男性はかつて足が不自由だったということを。そして今、歩けるようになったのです。その秘訣はイエスの御名であり、イエスの名を信じる信仰によるものだとペテロは言います。はい、ペテロが、です。しかしそれは、今期の安息日学校ガイド『聖書をいかに解釈するか』に記されているように、聖書が語っていることであり、神ご自身がおっしゃっていることでもあります。聖書が、神が言われます。イエスの名によってその男性をは歩いたと。

主イエスさまは十字架にかかられる前の夜、いわゆる最期の晩餐の席で、弟子たちに繰り返し語られたことがあります。「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」(ヨハネ福音書14章13、14節)。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」(15章16節)。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」(16章23、24節)。

祈りは、主イエスの御名で祈るのです。お祈りの最後に「主イエスさまのお名前によって祈ります」と付け足すのが祈りなのでなく、徹頭徹尾、祈りは主によります。主によって愛され主によって救われ、主の栄光のために祈る私たちの祈りは、主ご自身の祈りです。主は万軍の主、王の王、主の主、宇宙の統治者でいらっしゃいます。十字架によってサタンの滅びを確定させ、私たちを罪から救われました。主につく者には、すでに勝利が保証されています。まことの大祭司である主イエスは天から聖霊を送り、私たちを清め、権威を授けてくださいます。まことの預言者でもある主は、日々私たちの行くべき道を示し、永遠の御国へと導いてくださるのです。全能の主の御名には絶対的な力があります。祈りの最後に「イエスさまの御名で」と宣言できることを楽しみにしながら、ずっと祈り続けてください。あるいは祈りの最初に「天の神さま。御子イエスさまの御名で祈ることが許される特権を、感謝します」等と祈り始めても良いでしょう。それが真のクリスチャンの祈りなのです。

ペテロも足が悪い男性を立ち上がらせる際、「イエス・キリストの名によって」(使徒行伝3章6節)と宣言しました。集まった民衆に対してもイエスの名を証ししました。しかしペテロの説教は、その男性が歩けるようになった事情説明のためにイエスという名を用いただけでは済みませんでした。罪からの救いと永遠の生命への招きを続けます。罪からの救いも永遠の生命も、イエス・キリストによります。ペテロは語ります。「あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です」(15節)。「自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって決めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなるその時まで、必ず天にとどまることになっています」(19~21節)。

主イエスさまを宣べ伝えることがペテロの使命でした。けれども、いきなり話し始めても聞いてくれる人は少ないかも知れないので、まず神は、生まれながら足の不自由な男性のいやしをなさせます。そして人々の関心を集められた後に、主イエスの十字架と復活とを語り、やがて再び遣わされる再臨を宣べ伝えました。しかもこの場で話を聞いているのはユダヤ人ばかりで、みんな旧約聖書の知識を充分に持っていましたので、万物が新しくなるその時までイエスが天にとどまることになっているのは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られたとおりだと念を押しました。預言者というのは旧約聖書の預言者ですので、旧約聖書の預言どおりに主イエスは天から来られると、ペテロは言いたかったのです。足を治すことで生活の必要に応え、人々の心を開き、相手が理解できる形で福音を伝える。この順番が大切です。使命を果たすためには適切な順序を踏まなければなりません。

祈祷週テキスト『アドベンチスト信仰の原点3』の59ページ上段には、次のように書かれています。

「私たちは人々の生活のすべての面に奉仕するように求められています。真の伝道には、伝道と思いやりの行為が必要なのです。生命のパンであるイエスを宣べ伝えながら、飢えた者たちに食物を与えないのは真のキリスト教ではありません。日照りの村に井戸を掘りながら、生命の水であるイエスを宣べ伝えないのは、部分的にしか彼らの必要に応えていないことです。

結局のところ、伝道の成功は神学を語ることよりも、宣教者の生活に愛を表すことと関係があります。使命者自身が使命、宣教者自身が使命なのです。」

神さまが私たちに託してくださった使命は、福音を宣べ伝え、主の弟子たちが育てられることです。それは主ご自身からの命令であり、約束でもあります。主の権威が私たちにも授けられ、イエスの名を信じる私たちを通して約束が実現されるのです。御言葉に頼り、日々祈り、私たちは作り変えられ、教会は生まれ変わります。私たちは使命を果たすため歩みを続けるでしょうが、自分が歩み続けたから使命が果たせたなどという印象が残ることは、決してありません。100%恵み、100%神の権威、100%主イエスの御名による。私たちが使命者として遣わされるのは神ご自身の御業によります。御業そのものを生きる者になりたいと願います。主ご自身が成してくださる御業を、もっともっと見せていただきたいと願います。

主よ、あなたの民を通して、あふれるほどの祝福が地上に拡げられますように。


(2020/04/23)

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