top of page

私たちは何者か

更新日:2020年8月21日

使徒行伝2章からのメッセージ「私たちは何者か」


セブンスデー・アドベンチスト仙台教会 眞田 治


五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国の言葉で話しだした。

使徒行伝 2章1~4節


仙台教会では当初、4月18日(土)~25日(土)に「春の祈祷週」を予定していました。「いました」と過去形で表現するのは正確ではなく、やはり今も予定どおり祈祷週です。けれども皆さんで毎日のように集まって祈ることが困難になってしまいました。ご家庭での祈りには、この1週間は特に心がけていただきたいと願っています。電話の祈祷会も計画していますので、後ほどご案内いたします。

今回の祈祷週のテキストは『アドベンチスト信仰の原点3』です。お手元にお持ちの方々は開いてみてください。今日のメッセージは、初めの安息日、3ページ目から始まる「私たちは何者か……人間の創造とその意義」に基づいてお話をいたします。


祈祷週テキスト4ページの下段に、次のような段落があります。

「神のかたちに創造されているということは、神が単数であり同時に複数であるように、個性と関係を意味しました。人間の複数性は愛の作用を保証し、愛は男女の関係を特徴づけるものでした。したがって、神が女を創造するときに男を眠らせたことは重要な意味を持っています。男は女の創造に決して責任を感じるべきではありませんでした。男の創造と同様、女の創造は、神の明らかな意思によれば、神ご自身の目的と栄光のためでした。神が男と女の関係に与えておられた調和が失われたのは堕落においてでしたが、あがないの計画は、イエス・キリストにあって1つになるという教え(ガラテヤ書3章28節)によって、(男女・民族・階級間の)人間の相互関係と補完性を回復します。」


「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」(創世記1章27節)。

人は、神に「かたどって創造された」存在です。でも、男だけ、女だけだったら、神の似姿にかたどられた者とは言えません。男と女があって、複数の人がいて、初めて神の似姿なのです。複数の人がいなければならない理由は、人は、互いに愛し合う存在として創造されたからです。なぜなら神ご自身も父と子と聖霊なる御方であり、互いに愛し合う主なる神さまだからです。人が神の似姿である以上、神が愛であるならば人も愛でなければなりません。神が人を男と女とに創られた目的は、人々が愛を生きるためでした。男女というのは象徴的で、性別の違いだけではなく民族を超え、階級を超えて、違いを超えて愛し合うのです。さらに愛は、人の努力によって身に付けるものとしてではなく、神の恵みによって授けられているものであります。最初の男性アダムが創られる前、地上に人は存在していませんでしたので、アダムは人の意志とは関わりなく完全に神の御心によって創られたことが分かります。最初の女性エバが創られた際に、アダムは「深い眠りに落とされた」と創世記2章21節に書かれておりますので、アダムが無意識のうちにエバが創られた、すなわち、人の働きとは関係なく神の明らかな意思によって女性が創られたのです。一方的な神の御業という意味で、恵みによって男と女とが創造されました。言い換えれば、互いに愛し合うことができるように地上に複数の人が生を受けた要因は、主なる神の恵みによるのであります。

私たちは何者なのでしょう。全能の主によって創られた者です。愛の存在として創造された者たちです。

ところが、そこに罪が侵入しました。神の御言葉に反して、エバもアダムも善悪を知る木の実を取って食べたのです(創世記2章16節、3章6節参照)。その結果、神への愛が妨げられて彼らは神から隠れ(3章8節)、責任転嫁を始めます(12、13節)。愛の存在として創られた人間ですが、罪によって愛が途切れるのです。その好ましくない一連の流れを堕落と申します。堕落した人間は恵みの神に頼るのではなく、自身の才能や英知を誇るようになります。上からの恵みではなく下からの(自らの)積み重ねで救いを得ようとします。彼らは一致しているように見えて、じつは愛していません。自己本位という目的が一致しているだけだからです。バベルの塔を建てるという人々の目的を神が遮られたのは、それが罪なる行為であり、そこに愛がなかったからです(創世記11章1~9節参照)。愛がない現実を明らかにされ、見せかけだけの一致を散らすため、神は「彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬように」(7節)なさいました。人類が使う言語が国や民族によって異なるのは、バベルの塔のこの出来事以降だと言われています。

私たちは何者でしょうか。全能の主によって創られた者です。愛の存在として創造されたものの、罪によって愛を失った者たちです。

今般のコロナウィルス禍。病気も怖いですが、病気を恐れるあまり人間関係や神さまとの関係が疎遠になることも怖いです。こうして手紙を書かせていただくことにしたのも、コロナのそんな二次災害を防ぎたいからに他なりません。

ドイツ人の友達がいるのですが、日本政府が入国制限を敷く直前、祖国を発って家族の住む日本に向かいました。しかし成田空港では、ウィルス検査も受けさせてもらえないまま、監視つきホテルで宿泊し、翌朝には強制帰国となったのです。宿泊費も往復の飛行機代も自費で払わなければなりません。感染者が日本より多いヨーロッパの人だという理由だけでです。

日本はドイツを愛しているのでしょうか?いわゆる西側諸国の自由主義陣営という一致点がありますが、日本政府はドイツ政府を愛しているでしょうか?答えは明白に「否」であります。もちろん政府には自国民を守る義務があるし、上に立つ人々が一般の人々を守るために責任に基づいて判断しなければならないのは当然です。善いか悪いかの善悪の話をしているのではなく、ただ事実として、一致していることと愛していることとは意味が異なると申しております。順境の時には良好な関係でも逆境になると交流が途絶えてしまうようでは、それは結局、初めから愛がなかったことの証拠ではないでしょうか。

日本はドイツを、と書きましたが、逆も真なりです。ドイツも日本を愛してないでしょう。それどころか同じヨーロッパ圏のドイツ・フランス・イタリア・スペイン…。各国は互いを愛していません。彼らはEU(ヨーロッパ連合)として一致し、通貨を統合、各国間を自由に往来できる共同体でありました。しかしコロナが蔓延した後は自国を守ることに精一杯、通行も制限されています。今までの一致は何だったのでしょうか。自国の利益のために他国を利用する見せかけの共同体に過ぎなかったのではないでしょうか。

ダニエル書2章に、大きな像の夢を見た話が描かれています。頭が金で、バビロン帝国。胸が銀で、メディアとペルシャ。腹は青銅でギリシャ。そして脚は鉄でできておりローマです。ダニエルの時代から数百年間、そして数千年間の歴史が預言されています。しかし最も重要なのは、ローマ帝国が分裂した以降の、脚の下の足です。その像の足は鉄と陶土とが入り混じっていますが、溶け合うことはありません。この足によって予表されているのはヨーロッパ諸国で、国と国とが共同しているものの1つの国家として統一されることはないことが明示されています。一致しているように見えて、じつは弱くて、もろい。そういう時代に「1つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と陶土の足を打ち砕きました」(ダニエル書2章34節)。「この王たちの時代に、天の神は1つの国を興されます。この国は永遠に滅びることなく、その主権は他の民の手に渡ることなく、すべての国を打ち滅ぼし、永遠に続きます。山から人手によらず切り出された石が、鉄、青銅、陶土、銀、金を打つのを御覧になりましたが、それによって、偉大な神は引き続き起こることを王様にお知らせになったのです」(44、45節)。この「人手によらず切り出された石」、何ですか?地上の国々が滅びて歴史が終わっても、その石によって造られる国は滅びない、その石は何でしょう。

……再臨のキリスト。

今年、イギリス国会はEUからの分離を正式に採決しました。その直後に、このコロナ禍です。鉄と陶土が混ざっているけど溶け合わない事実、その預言の現実性が明らかになりつつあります。そんな時代に、キリストは再びおいでになるのです。


すみません。ようやく冒頭の聖句、使徒行伝2章1~4節です。

「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国の言葉で話しだした。」

いわゆるペンテコステの聖霊降下の出来事であります。「心を合わせて熱心に祈っていた」(1章14節)弟子たちに、神の霊が激しく注がれたのです。

キリスト・イエスが十字架で殺され、彼らは希望を失いそうになっていました。師と慕い主と信じていた御方が捕えられた際、彼らはその御方を守ることができませんでした。あんなに愛されていたのに、いかに自分たちは主を愛していなかったことでしょう。十字架の前夜、いわゆる最期の晩餐の席で、「使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった」(ルカ福音書22章24節)ように、彼らは互いに愛していませんでした。主を愛さず、隣人をも愛さず、罪深い自分自身の現実を思い知らされたのです。しかし彼らは、復活の主に出会います。一度は死んだけれども墓からよみがえられた御方が、彼らに御言葉をかけられます。「あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられる」(使徒行伝1章5節)と。『患難から栄光へ』という書物の第4章で、「弟子たちは希望が失望に終わったことを嘆いてはいなかった。彼らはよみがえられた救い主を見てきたのである。そして別れのとき主が約束されたことばが、彼らの耳の中に絶えず響きわたっていた。弟子たちはキリストのご命令に従って、エルサレムで天父のお約束の聖霊の降下を待った」と証しされています。そこに、約束どおり聖霊が授けられたのです。

私たちは何者でしょうか。全能の主によって創られた者です。愛の存在として創造されたものの、罪によって愛を失いました。自分の罪深さ、愛のなさに直面して落胆することがあります。けれども主イエスは、私たちを見捨てることは決してありません。約束を果たしてくださる。必ず出会ってくださる。聖霊によって満たされて、いつも主が共にいらしてくださる。私たちはそのような者です。

ペンテコステの聖霊降下の際、弟子たちが「“霊”が語らせるままに、ほかの国の言葉で話しだした」ことにも注目しなければなりません。バベルの塔では、神は「彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬように」(創世記11章7節)なさいました。でも反対にペンテコステでは、お互いの言葉を理解できるように語らせられます。種々の外国語を話す賜物が聖霊によって与えられたので、コミュニケーションが容易になったのです。罪によって分断された人間関係が、聖霊によって回復させられます。そして弟子たちは、複数の言語を聖霊によって語ることで、世界中から集まった人々に対して、キリストの福音を宣べ伝えることができたのです。

私たちは何者でしょうか。全能の主によって創られた者です。愛の存在として創造され、創ってくださった神さまのことを多くの人々に伝える使命を託された者です。私たちは聖霊によって語り福音に生きる。そのような者たちであります。聖霊を授けられても外国語が堪能になるとは限りませんが、御霊の実の第一である「愛」を生きる者とされることは御言葉により約束されています(ガラテヤ書5章22節)。創造主ご自身のご栄光のために、創造主は私たちを限りなく祝福し、人知を超えた上からの力によって私たちを用いてくださるのであります。


先日、他のグループの教会の先生と話す機会に恵まれました。その先生は牧師であり農学博士でもあり、創世記に描かれた天地創造の出来事を研究し、主の福音を伝えておられます。学問的には農業がご専門ということもあって、今般のコロナウィルス禍については、人が遺伝子を組み替えて新種の生物を作っていることへの神さまの警告ではなかろうかと考えておられました。人は神でもないのに、まるで創造主であるかのように振る舞って新種を作ることを誇っている。神の創造の業である遺伝子を人間が勝手に操作する傲慢さ。そのような人類への警告で、人の知恵では制圧できないウィルスが送り込まれるのを神は容認なさったのではないか。新型ウィルスは聖書に預言された世の終わりのしるしである。専門的なことは分かりませんが、私にも納得できるお話を伺うことができました。

その先生のお考えも然り、バベルの塔も然り。人が高ぶって自分の力で救いに至ろうとする時、神は警告を、あるいは裁きを発せられます。祈祷週テキストの今日のお題は「私たちは何者か……人間の創造とその意義」でしたが、私たちは神の似姿に創られた者です。神は創り主ですので、神に似ている人間も何かを作ることができますが、神を超えることはできません。私たちは創られて、創られただけでなく救われ、徹底的に神の主導権によって恵みにより創られ、救われた存在なのです。聖霊が与えられるのも恵みであり、恵みを恵みとして理解するためには、私たちは身を低くして祈らなければなりません。

今まで当たり前だったことが当たり前ではなくなってきましたね。4年に一度のオリンピックも延期、春になればプロ野球が始まるという常識も、どうなるのか分かりません。人間が英知を結集して積み上げてきた伝統や慣例が崩れ去っていきます。コロナウィルスCOVID-19。それ以前の価値観には、もはや戻れないのかも知れません。神の約束だけが唯一の確かなものであると認めざるをえない社会に今後は向かっていくのではないでしょうか。そして、それを認めるか認めないかで、その人の永遠が、永遠の命か永遠の滅びかが決する終わりの時代を迎えるのではないでしょうか。

私たちは全能者によって創造された者です。上からの恵みによって創られました。十字架の主によって罪から救われた者として、今も上からの聖霊を祈り求めなければなりません。ただ主なる御神だけが崇められ、主にのみ栄光が帰されますように。


(2020/04/16)


 

電話での祈祷会のご案内


4月22日(水)、4月29日(水)、5月6日(水)

午前10時~11時(約1時間だけ仙台教会が回線を借りました)

当日午前10時になりましたら、

03-4578-0172 にダイヤル。音声ガイダンスを聞いた後、

818-273-1108# にダイヤル。(#をお忘れなく)

固定電話からでも携帯電話からでも、1通話で約30円です。

3人以上でも同時に話せる電話回線です。スピーカーフォン機能を使うと声が共鳴しますので、受話器を耳に当てて通話してください。

電話口で皆さんで讃美歌を歌い(約10分間)、聖書の話を牧師がし(約20分間)、互いに短く近況報告(約10分間)の後、祈りの会を持ちましょう(約20分間)。

閲覧数:18回0件のコメント

最新記事

すべて表示

変容する宣教

使徒行伝13章からのメッセージ 「変容する宣教」 眞田 治 パウロとバルナバが会堂を出るとき、人々は次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼んだ。集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神をあがめる改宗者とがついて来たので、二人は彼らと語り合い、神の恵みの下に生き続けるように勧めた。 次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひど

奇跡を信じる

使徒行伝12章からのメッセージ 「奇跡を信じる」 眞田 治 ヘロデがペトロを引き出そうとしていた日の前夜、ペトロは二本の鎖でつながれ、二人の兵士の間で眠っていた。番兵たちは戸口で牢を見張っていた。すると、主の天使がそばに立ち、光が牢の中を照らした。天使はペトロのわき腹をつついて起こし、「急いで起き上がりなさい」と言った。すると、鎖が彼の手から外れ落ちた。天使が、「帯を締め、履物を履きなさい」と言っ

キリスト者と呼ばれる

使徒行伝11章からのメッセージ 「キリスト者と呼ばれる」 眞田 治 ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行ったが、ユダヤ人以外のだれにも御言葉を語らなかった。しかし、彼らの中にキプロス島やキレネから来た者がいて、アンティオキアへ行き、ギリシア語を話す人々にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせた。主がこの人々を助けられ

bottom of page