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ACTSの祈り

更新日:2020年8月21日

使徒行伝1章からのメッセージ

「ACTSの祈り」

SDA仙台教会 眞田 治


彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。

使徒行伝 1章14節


コロナウィルスが流行し始めてから、今が世の終わりなのだという思いがますます強まりました。ルカ福音書21章11節に「大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり」と預言されていることだけが理由ではありません。政治の動向にも人々の生活にも、聖書の御言葉が反映している有様が見えてしまうのです。ゆるされた罪人として私たちは主の御前に生きています。ゆるしてくださった御方の前に立ち続けるのか、立ち去るのか。私たちは自分自身の永遠にかけて、今、決めなければなりません。

主イエスが間もなくおいでになります。E.G.ホワイトの『各時代の大争闘』第40章の言葉を紹介します。


まもなく、東の方に、人の手の半分くらいの大きさの小さい黒雲が現われる。それは、救い主を囲んでいる雲で、遠くからは、暗黒に包まれているように見える。神の民は、これが人の子のしるしであることを知っている。彼らは、厳粛な沈黙のうちに、その雲が地上に近づくのを見つめる。それは次第に明るさと輝かしさを増し、ついには大きな白い雲となって、下のほうには焼き尽くす火のような栄光が輝き、上のほうには契約のにじがかかっている。イエスは、偉大な勝利者としておいでになる。今度は、恥辱と苦悩の苦い杯を飲む「悲しみの人」ではなくて、天地の勝利者として、生きている者と死んだ者とをさばくために来られる。「忠実で真実な者」「義によってさばき、また戦うかたである。」そして「天の軍勢が」彼に従う(黙示録19:11、14)。数えることのできないほどの聖天使の群れが、天の聖歌を歌いながら付き従う。大空は、「万の幾万倍、千の幾千倍」もの、輝く天使たちで満たされたように見える。この光景は、人間のどんな筆によっても描くことができない。その輝かしさは、どんな人間の頭でも十分に想像することはできない。「その栄光は天をおおい、そのさんびは地に満ちた。その輝きは光のようであ」る(ハバクク3:3、4)。生きている雲が、さらに近づくと、すべての目は、いのちの君をながめる。いまはその聖なる頭を傷つけるいばらの冠はなく、その聖なる額には栄光の冠がある。そのみ顔は、真昼の太陽よりも明るく輝く。「その着物にも、そのももにも、『王の王、主の主』という名がしるされていた」(黙示録19:16)。

「まもなく、東の方に、人の手の半分くらいの大きさの小さい黒雲が現われる」と書かれてある「まもなく」は、いつのことでしょう。主イエスさまは、いつおいでになるのでしょう。

今月から来年3月まで、使徒行伝を1章ずつ説教することにいたしました。使徒行伝は28章までありますので、毎月2~3回です。今回と次回は、コロナ対応で安息日に教会を休みにしていますので、このように郵便で送らせていただきます。その次からは状況を見ながら考えますが、通常の安息日礼拝を持てるようになった後でも、1年間ずっと説教原稿を印刷したいと思っています。

さて、今回は使徒行伝の1回目、第1章ですが、6節で弟子たちが主イエスさまに質問します。「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と。この時点でまだ弟子たちは、救われるのはイスラエル民族だけだと誤解していましたので、神の完全な救いが顕わされるのは「この時ですか」との趣旨で、上記のように問うたのです。言い換えると、主が再臨なさって完全に罪が消し去られて自分たちが救われるのは今ですか、という質問です。それに対して次の7節で、主イエスは「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない」とお答えになります。マタイ福音書24章36節の「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」という御言葉は有名ですが、主の復活の後を描いた使徒行伝でも、同じようなメッセージが語られているのです。

「まもなく」とか「わたしはすぐに来る」(黙示録22章20節)とか言われると、私たちは今か今かと待ち望みます。先ほどの弟子たちのように「それは今ですか」と焦ってみたり、「コロナウィルスが沈静化する前に主は再臨なさるのではないだろうか」等と時期を限定しようとしたりするのです。しかしイエスは明言なさいました。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない」。では私たちは、時ではなく何に気を配る必要があるのでしょう。その次の8節、使徒行伝1章8節をお読みします。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりではなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。

この聖句で大切な点は3つですね。①聖霊をいただくと、②力を与えられ、そして、③主イエスさまを証しする証人になる。「この時ですか」と時期を心配するよりも、聖霊を賜り、神の力によって伝道することのほうが大切だと、主は教えてくださったのです。では、聖霊を降される前に、弟子たちは何をしていたのでしょう。次回のメッセージ第2章では聖霊が降される話をしますが、その前に弟子たちは、何をしていたのでしょうか。1章14節です。「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」。

この「熱心に祈っていた」、3年前の2017年7月、仙台教会の教会組織70周年記念式典での島田真澄先生による祝辞を思い出します。「熱心に祈っていた」とは、字義的には「祈るのに忙しかった」という意味なのだそうです。しばしば私たちは「忙しくて祈る暇がない」と言い訳をしがちですが、まったく逆、祈るのに忙しかった、他のことをする暇もないほどに祈り明かしていた。弟子たちのそういう姿勢は、使徒行伝2章42節でも「祈ることに熱心であった」と記録されています。祈りに専心した末に「一同は聖霊に満たされ」(2章4節)る出来事が起こり、さらに祈りが増していったのです。

使徒行伝は初代教会における聖霊の歴史です。主導権は人ではなく、徹底的に神にあります。神の力、神の権威によって福音が宣べ伝えられたキリスト教史の最初の数十年間が記録されています。神の力が私たちの間で働くためには、人間の力を無にして神の権威にのみ頼らなければなりません。「力を捨てよ、知れ、わたしは神」(詩篇46編11節)と書かれているとおりです。祈りは、人の力を捨て、神を知ることに他なりません。


神を知るために祈る。神を知るために、祈るのが忙しいほど祈る。

でも、そう言われても、ちょっと祈るだけで祈りの言葉が尽きてしまう人もいらっしゃるでしょう。そこで今日は、神さまとの交わりを親密に保つための一例を申し上げます。「ACTSの祈り」です。4項目を順番に祈ることで、バランスの取れた幅広い祈り方を身に付けやすくなります。4項目というのは、ACTS、以下のA・C・T・Sのことです。

Aは、Adorationの頭文字で「讃美」の意味。

Cは、Confessionで「告白」。

Tは、Thanksgivingで「感謝」。

Sは、Supplicationの頭文字で「願い」の意味です。

ちなみに、使徒行伝のことを英語ではActs of the Apostlesと呼び、略称は“Acts”ですので、「ACTSの祈り」という名前そのものが言葉遊びになっています。

さて、初めのA、讃美ですね。讃美というのは讃美歌を歌うことだけではありません。今はコロナの飛沫感染を防ぐため集まって歌うことさえ遠慮しなければならない残念な状況です。でも、歌わなくても讃美することはできます。神さまをほめ賛えるのです。たとえば、こうです。「天の神さま、あなたは、すべてのものを創られた素晴らしい御方です」、「すべてを支配しておられる力ある御方です」、「王の王、主の主です」、「あなたは独り子を遣わし、まことの愛を示されました」、「栄光を受けるのは、あなたさまだけです」等と、神さまご自身のことを最初に祈ります。「主の祈り」の冒頭で「天にまします我らの父よ、願わくは御名を崇めさせたまえ」と言うよう教えられているのも、讃美の祈りに含まれます。

次はC、告白ですね。罪の告白です。これは「十字架のキリストによって救われた罪人の私です」といった一般的な罪認識のことではなく、もっと具体的なことを指します。かと言って自分の罪深さを探ることが目的でもありません。心に隠し持っている罪の現実を、正直に全能者の御前に申し述べます。たとえば、「私は今日、○○○さんの悪口を言ってしましました」、「ホンネとタテマエを使い分けて○○○さんに迷惑をかけました」等、隠し立てできない神さまに告白します。ゆるしを具体的に自分自身の日常生活で体験するためには、言い訳せず、具体的に祈らなければなりません。私たち一人一人と神さまとの間を隔てている罪の壁を、神さま御自身によって具体的に取り除いていただくのです。「私は夫以外の男性に(または妻以外の女性に)惹かれ、好きになってしまいました。心が痛み、神さまの愛を実感できません。ゆるしてください。ゆるしてくださるだけではなく、この罪の痛みから私を解放してください」等と、他人には言えないことでも神さまには申し上げることができます。理屈ではなく実際の救いの喜びを味わうために、避けては通れない種類の祈りです。

コロナウィルスが勢いを弱めるまで、仙台教会では水曜の祈祷会や安息日午後の祈りの輪もお休みにしています。集まって祈る機会が少ないのは喜ばしいことではありません。しかし、神さまと一対一で祈る祈り、他の人には聞かれたくないけど神さまとの対話の祈り。この期間が、私たちの祈りの鍛錬の時としても用いられれば良いと願っています。

そして、その次はT、感謝。感謝の祈り。これも正直に祈ります。「私を罪から贖うために独り子を十字架にかけてくださったことを感謝いたします」、「仙台にもセブンスデー・アドベンチスト教会を建ててくださって、ありがとうございます」等の一般的なことから、もっと個人的なことも率直に祈ります。たとえば「孫が無事に高校に合格できましたことを感謝します」、「学生時代の友達から久しぶりに手紙が届いたことが、うれしいです」等、どんなことも感謝して祈ることができます。なぜなら神は、親なる神さまだからです。祈りの目的は神を知ること。親は我が子から「ありがとう」と言われるとうれしいものですよね。神さまとの絆を強めることが祈りの本質です。ありがとうを言わない子には、親は次に何をプレゼントしようか迷うのではないでしょうか。でも、どんなことにも感謝を言う子には、どんなことでもして上げやすくなりませんか。神さまとの親子の信頼関係のために、感謝の祈りはとても大切です。

それから、最後。ようやくお願いの祈り、Sですね。私は大学生の頃にバプテスマを受けたのですが、信仰や教会とは直接に関係ないことは祈ってはいけないと勝手に思いこんでいました。だから就職活動のこと等は、ほとんど祈りませんでした。でもそれは、とても傲慢だったと思います。神さまとは関係ないところで自分の力だけで解決できる分野があると言っているのと、同じだからです。主はすべてを支配しておられる御方です。神さまと関係ない領域など、宇宙に存在しません。サタンでさえ、主なる神さまの権威の前には滅びに定められた無力な存在です。私たちは救われて神の子とされているのですから、どんなものでも願い求めることができます。

「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」(ヨハネ福音書14章13、14節)。「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります」(第一ヨハネ書5章14、15節)。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」(ローマ書8章32節)。私たちの願いを主が聞き入れ、かなえてくださる、すべてのものが与えられる、そういう約束で聖書は満ちています。これらの約束を主に訴えながら、「神さま、こう聖書に書いてありますから、神さま、必ず私の願いを実現させてくださいますよね」等と祈り求めることができるでしょう。そして主なる神さまが私たちに授けてくださる地上で最善のもの―、それは聖霊です。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者は開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(ルカ福音書11章9~13節)と保証されています。

ぜひ皆さん、このACTSの祈りを祈ってください。讃美・告白・感謝・願いを意識して祈り続け、神さまとの霊的な交わりを深めてください。主と共なる生活を堪能していただきたいのです。

使徒行伝の時代、弟子たちは集まって祈っていました。2020年4月現在、世界中の多くのセブンスデー・アドベンチストは集まりたくても集まれない現実の中におります。しかし場所は各々違っていても、「心を合わせて熱心に祈っていた」(1章14節)を実体験することはできます。聖霊を求めて心を合わせましょう。神の力を信じて熱心に、祈るのに忙しいほどに祈りましょう。多くの方々にキリストを証しする証人とさせていただけるように、自分自身を捧げて祈りましょう。主は必ず、豊かに応えてくださいます。

皆さまおひとりおひとりが、創造主にして贖い主である御方と活き活きした出会いをなさり、その喜びを伝える神の働き人をしてますます用いられますよう、願っております。

「アーメン、主イエスよ、来てください。主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように」(黙示録22章20、21節)。


(2020/04/09)

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