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読み方

更新日:2021年11月29日

聖書を、どう読むか、ということは、とても重要です。聖書の本文に入る前に、聖書の「読み方」の心得を、少しだけお話ししておきたいと思います。

☆聖書は神の霊感の書

 イエス・キリストをほかにしては、最大の教師であったと言われる使徒パウロは、『聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであ』る、と述べています(新約聖書テモテへの第二の手紙、口語訳)。

 すでにお話ししましたように、聖書の真の著者は神様です。しかし、それは、人間の手で書かれました。

 これは、神様が聖書記者たち(約40人)に聖霊を注がれて、その人々が、与えられた思想を人間の言葉で表現したということです。

 つまり、霊感は、聖書の「言葉」ではなく、「人」に対して与えられたということです。

 一つだけ、例をあげて説明しましょう。

ヨハネの黙示録1章の中で、著者ヨハネは、神様から幻を示され、復活されたキリストを見た時、次のように描写しています。 『その(ギリシャ語原文では「彼の」)かしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真っ白であり、目は燃える炎のようであった。その(彼の)足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった』(1章14,15節)

 私が初めて、聖書のこの箇所を読んだ時、驚いてしまいました。畏敬の念というよりも、何か得体の知れない感じにとらわれたのを覚えています。

 ヨハネが、幻の中で、復活した栄光のキリストを見たとき、キリストのお姿をあらわそうとしたときに、人間の限界を感じたに違いありません。そして彼は、人間の言葉で可能な限りの表現をしたのでした。

 イエス・キリストは、神の子であると同時に、人の子でした。つまり、ちょっと難しい表現で申しますと、キリストの御性質には、神性と人性の結合が見られました。

 同じことが聖書についても言えます。すなわち、神的な要素と人間的な要素の結合です。

 ですから、私たちは、聖書の文字ひとつひとつが霊感を受けているという、いわゆる逐語霊感説、あるは言語霊感説の立場は取らず、霊感を受けた人(著者)がその思想を人間(その人)の言葉で表現したという思想霊感説の立場をとります。

 少しは理解の助けになったでしょうか。

☆あるがままに受け入れる

 上記のことを踏まえて、次のステップに行きます。

聖書は、特別な象徴などが用いられていない限り、書かれたそのまま、あるがままを神の言葉として受け入れることが大切です。(「象徴」は、特に終末預言であるダニエル書やヨハネの黙示録に顕著ですが、これについては、別に学びます)

☆聖書の中心はイエス・キリスト

 創世記からヨハネの黙示録まで、66巻の聖書には、確固とした軸があります。それは、聖書全巻の中心が、イエス・キリストだということです。

 キリストは、ある時言われました。

『あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしするものである』と。

 キリストの時代の宗教家(聖書学者ー律法学者やパリサイ人など)たちは、教条主義に陥っていました。聖書の文字にとらわれ、それをああでもない、こうでもないといじくりまわして、人を裁き、それらの字句に文字通りしたがっているかどうかを、お互いの信仰の基準としていました。

 そのため、人々の心は、がんじがらめになってしまい、神を信じることから来る喜びも、平安も失われていました。

 そこでキリストが言われたのが、上記の聖句の言葉です。聖書を読むとき、どんな教えの中にも、キリストを見るように読むことが大切です。その時、心に喜びの泉が湧き上がります。

☆自分に対する神のメッセージとして読む

 旧約聖書は、紀元前(BC=Before Christ「キリスト以前」の略)1500年から、紀元前400年ごろにわたって書かれました。新約聖書は、キリスト昇天後の紀元(AD=Anno Domini「主の年に」、の略)39年頃から同100年頃の間に書かれました。

 ですから、およそ1600年間にわたって書かれたわけですね。その内容は、歴史あり、詩歌あり、預言あり、さまざまです。

 しかし、どんな内容であれ、そこに書かれている言葉を、「私に宛てられた神のメッセージ」として読むことが、聖書を読むときの、基本的な態度です。

 たとえば、『悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめる(賛美する)であろう』(詩篇50編15節口語訳)という言葉は、神様から、あなたへのメッセージです。

 新約聖書の最初の書であるマタイによる福音書11章28節には、『すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう』とのキリストの招きの言葉があります。

 これも、愛の神からのあなたへのメッセージなのです。

ちなみに、この言葉は、星野富弘さんが高校時代に農作業をしていた時に見た白い十字架に刻まれた言葉で、その後、大きな力をもって迫ってきた神様のメッセージでした。

 このような「約束」が聖書には、5000以上あると言われます。たとえば、上記の詩篇には、私が数えただけでも、388の「約束」があります。イザヤ書には348もありました。こういう「約束さがし」をするのも、楽しいですよ。心に希望と喜び、勇気が湧いてきます。

 聖書には、とても自分に宛てられたメッセージとは受け入れられないような箇所があることも確かです。 また、耳が痛い言葉もあるでしょう。それも素直に受け入れる態度を持つと神様から祝福されます。

 このように、聖書を「神から私へのラブメッセージ」として受け止めることがとても大切です。

☆聖書解釈の原則

 もうひとつ追加です。はじめて聖書を読まれる方には、少しむずかしいかもしれませんが、それでも、とっても重要な心得について述べておきたいと思います。

 聖書をどう読むか、ということは、とても大切です。キリスト教にいろいろな教派があることからみても、いろいろな読み方ができるのかな、と思う人もおられるでしょう。

 聖書が本来意図しているところの意味を明らかにする作業を、「釈義(しゃくぎ)」と申します。

 神様の御ことばの意味を明らかにするためには、その書の構造や歴史的な背景を調べることなども大切ですが、何よりも、まず、聖書そのものをよく読むことです。

 聖書は、もともと、旧約聖書がヘブル語あるいはヘブライ語、新約聖書はギリシャ語(以後、原文と呼びます)で書かれています。

 この原文を読めれば、最高なのですが、だれもが読めるわけではありません。

 それで、次善の策は、いろいろな「訳」の聖書を比較しながら読むことです。日本語では、古くは、文語訳からはじまり、口語訳、新改訳、新共同訳などがあります。英語ができる方は、最もオーソドックスで、また権威ある訳の一つと言われる欽定訳聖書(King James Version)や、改訂標準訳聖書(Rivised Standard Version)、新国際訳( New International Versionなどがあります。(あまり横文字を使いたくないので、このぐらいにします。とにかく、かなりの種類の訳の聖書があります)

 どの訳が良いかとかいうことは、先入観を抱かせてしまうことにもなりかねないので、また、聖書本文の解説の中で、扱えればと考えています。ちなみに、私は、最近は、(他の訳とも常に比較しながら、また聴衆に口語訳を使う人が多いこともあって)口語訳を使うことが多いです。

 さて、本論に帰りましょう。

 2番目に、大切なことは、 文脈(前後関係)を重んじることです。これは、いくら強調しても、しずぎることがないほど重要な要素です。

 たとえば、聖書を読んでいて、ある言葉に疑問をもったとします。その場合、

(1)直近の文脈をみる。つまり、その言葉の前後のことばを

  見て、全体の意味を考える。

(2)それでもはっきりしないときは、前後の数節を読んでみ

  ることです。

(3)さらにその言葉が、その章の中で、どのような意味を持

  っているかを調べます。

(4)さらにその書(たとえば「マタイによる福音書」の中

  で、どのような意味を持つか。

(5)さらに 新約聖書全体(あるいは旧約聖書全体)での用

  法と位置づけを調べてみる。

(6)最後に、聖書全体の中で、どのように用いられ、位置づ

  けられているか、と調べる。

 文脈が、どうしてそんなに大事かと申しますと、それは人間の持っている先入観や偏見にも関係しているといってよいでしょう。

 (もうすぐ、聖日ー安息日ーが近づいてきました。この続きは、時をあらためてお話ししたいと思います。)

  上記の続きです。

 聖書を正しく読むための心得の一つが、文脈(前後関係)を重視することだと上記に記しました。

 一つ例を挙げてみましょう。

 聖句の箇所は、新約聖書のルカによる福音書23章43節です。次にように書かれています。

「イエスは言われた、『よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう』」

 ここは、十字架の場面で、十字架にかけられた2人の強盗とイエス・キリストが登場します。ちなみに、この場面(39-43節)は、医者ルカだけが、記録しています。

 キリストの左右にそれぞれ犯罪人が十字架にかけられていました。そのうちの一人は、キリストをののしりますが、もう一人の犯罪人の心に変化が起こります。彼は、自分の罪を認めるとともに、キリストの無罪を告白するのです。

 そして、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」と、キリストに語りかけます。

 それに対するイエスの応答が、上記の43節の言葉です。

「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」と。

この聖句を文字通りに理解しますと、イエスが十字架におかかりになったその日に、この犯罪人は、パラダイスに行くことになります。

 ここには、解決されなければならない2つの問題があります。 一つは、時間的な問題、もう一つは人の死後の問題です。

 まず、最初の問題から考えてみたいと思います。

果たして、イエス・キリストは、十字架にかかられたその日に、犯罪人をパラダイス(天国)に連れて行かれたのでしょうか。

 実は、ギリシャ語の原文では、句読点がありませんので、この「きょう」という言葉は、前の「よく言っておく」にかけて読むこともできますし、後ろの「わたしと一緒にパラダイスにいる」にかけて読むこともできるのです。

 どちらが正しいのでしょうか?

(1)時間的な要素

 すでにお話ししましたように、この箇所は、ルカによる福音書にしか出ていません。この箇所の前後関係や、もう少し拡大して、ルカによる福音書全体の文脈を見ても解決することは困難です。

 そこで、もう少し、広い文脈の中で調べてみましょう。

 ヨハネは、最後の晩餐の席で語られたイエスの言葉を記録していますが、その中で、イエスは、「あなたがたのために(天の)場所を用意しにいく」と言われました(ヨハネによる福音書14章1-3節参照)。

 しかし、その3日後、すなわち復活後に、イエスはマグダラのマリヤに対して、「わたしはまだ、父のみもとに上っていない」と語りかけておられます。

 ということは、イエスは、十字架におかかりになったその日には、「パラダイス」に行ってはおられないということです。その結果、イエスを神と告白したあの犯罪人も、その日に天国に行かなかったという結論になります。

 このことから、ルカによる福音書23章43節の「きょう」は、後半ではなく、前半にかけるのが正しい訳だということがわかります。 すなわち、

 「きょう、よく言っておくが、あなたはわたしと一緒にパラダイスにいるであろう」となるわけです。

(2)人間の「死後」に関する問題

 この聖句について、考えてみる必要があるもう一つの問題は、「死後」の問題です。

 ほとんどの宗教は、霊魂不滅の教えを受け入れています。つまり、人間の身体は死んでも、霊魂は、死なず、天(あるいは地獄)に行く、という考え方です。

 このような考え方を持つ人が、上記の聖句を訳すと、「きょう」を、あとにかけて読ませることになります。

 果たして、人の死後に、「魂」は生きているのでしょうか。

 これは、大きな問いです。

この問い解決のためには、聖書全体の文脈をさぐる必要があります。聖書は、「死」について、どのように教えているのでしょうか。

 旧約聖書の伝道の書(新共同訳では、「コヘレトの言葉」)9章の5-6節に、ソロモンは、霊感によって次のように書きました。 「生きている者は死ぬべきことを知っている。しかし、死者は何事をも知らない。また、もはや報いを受けることもない。その記憶に残る事がらさえも、ついに忘れられる。その愛も、憎しみも、ねたみも、すでに消えうせて、彼らはもはや日の下(この世界)に行われるすべての事に、永久にかかわることがない」

 詩篇記者は、「人の子に信頼してはならない。・・・その息が出ていけば彼は土に帰る。その日には彼のもろもろの計画は滅びる」と述べています(旧約聖書、詩篇146篇3-4節)。

 また、預言者イザヤは、「陰府(注:死者、死後の世界)は

、あなた(神)に感謝することはできない。死はあなたをさんびすることはできない。墓にくだる者は、あなたのまことを望むことはできない。ただ生ける者、生ける者のみ、きょう、わたしがするように、あなたに感謝する」と言っています(旧約聖書、イザヤ書38章18-19節)

 さらにイエス・キリストは、死を「眠り」と表現されました(新約聖書、ヨハネによる福音書11章11-14節)。

 また、使徒パウロも、キリストを信じて死んだ人々のことを、「イエスにあって眠っている人々」と言いました(新約聖書、テサロニケ人への第一の手紙4章13-18節参照)。

 このほか、新約聖書、旧約聖書の多くの文脈から、人間の死後は、霊だけが天にのぼるとか、霊魂だけは生きているという考え方は、聖書に基づいたものではないことがわかります。

死は「眠り」、すなわち、無意識の状態です。人が死ぬと、次に目覚める時(キリストの再臨の時、または、最後のさばきの時)まで、目覚めることはありません(新約聖書、ヨハネによる福音書5章28-29節参照)。

 死後の問題について、少しだけ考えましたので、ついでに、旧約聖書のサムエル記上の28章も、是非、読んでみて下さい。 非常に興味深い箇所です。

 ここで、古代イスラエルの最初の王であったサウルが、死んでしまった預言者サムエルと「会う」(サムエル自身に会ったわけではありませんが)場面が出てきます。

 サムエルを死の世界から呼び出したのは、「口寄せ」の女性でした。彼女が呼び出したのは、本物のサムエルだったのでしょうか?

 しかし、神は、「口寄せ」や魔術などは、サタンのわざとして固く禁じておられました。

 「男または女で、口寄せ、または占いをする者は、必ず殺されなければならない」(旧約聖書レビ記20章27節、申命記18章9-14節も参照)。

 なぜ、神は、これほど、強い言葉で命じられたのでしょうか。これらの人々は、死者と交信することができると主張していました。つまり、神が教えられた人間の死後の状態に反することを、彼らが教えていたからなのです。

 もし、死後にも、何らかの「生命活動」があるならば、死後に悔い改めることもできるわけです。

 しかし、聖書の教えは、私たちが救われるか滅びるかを決定するのは、今、生きている期間の間だけである。「今」私たちは神様との正しい関係にはいることが必要であり、それが救いのために神が備えておられる時なのです。

 実はサウル王は、悪魔の霊に尋ねるというこの行為のために、死んだのでした。

 「こうしてサウルは主にむかって犯した罪のために死んだ。すなわち彼は主の言葉を守らず、また口寄せにとうことをして、主に問うことをしなかった。それで主は彼を殺し・・・た」(旧約聖書、歴代誌上10章13節)。

 このように、死後も霊魂は生きているという考えは、元々、聖書から出たものではなく、異教の教えがキリスト教会の中に入って生まれたものなのです。中世のヨーロッパの教会は、ローマ教会(現在のローマ・カトリック教会)でした。ローマ教会(歴史では、「法王教」とも呼ばれた)は、霊魂不滅の教えを異教から導入し、地獄や、死後、魂が清められるために行く「煉獄」の教えも創作しました。

 そして、不幸にも、今日、多くのプロテスタント教会でも、霊魂不滅の教えは受け入れられています。

 長くなりましたが、皆様が聖書を正しく読むためには、前後関係、さらには、聖書全体をよく読むことが大切です。

 以上、聖書を正しくお読みになるための、助けに少しでもなれば、幸いです。

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