皆さん、こんにちは。はじめまして、山本義子と申します。
聖書は、神さまからのラブレターだと言われています。その手紙から学んでいきたいと思います。
わたしたち人間の先祖、アダムとエバが罪に堕ちてしまったのは、神さまから離れて、神の
言葉を疑いサタンの偽りの言葉を信じたからでした。
それ以来、人間の世界の歴史は、罪の入り込んだものとなりました。義人と言われる人は、
誰もいないのです。罪のために人は死ななければならなくなりました。
このような事態になるかもしれないと、神さまは予知なさり、そうなった時には神のひとり子を十字架につけるというご計画をたてておられました。イエス・キリストは、罪を犯す可能性はありましたが、決して誘惑に陥ったりすることなく、一度も罪を犯すことはありませんでした。そのような、純潔で清く聖なる方の血が十字架の上で流されることにより、世界中のすべての人々の罪がゆるされているのです。ただ、一人ひとりが「わたしの罪のために死んで下さった救い主、イエス・キリスト」としてその方を受け入れる時に、罪からのゆるしを得るのです。受け入れる心も神さまが与えて下さるのです。
ですから、すべては神さまからの贈り物なのです。十字架の死というのは、当時最も残酷と言われた刑でした。不思議な気がしますが、この方法だけがわたしたちを罪から救う唯一の方法だったのです。
キリストが犠牲となられたことは、母親の愛に似ているのかもしれません。
ある国に飢饉がありました。多くの人々が死んでいく中、ある母親は自分の赤ちゃんに自分の胸にナイフで傷をつけて、その血を飲ませていたそうです。またワシントン湖という場所の桟橋で渡し舟を待っている間に、小さな2人の男の子が湖の中の魚を見ていて、誤ってその中に落ちてしまいました。溺れかかっている子どもを助けようと、泳ぐことができないのに思わず湖に飛び込み、2人の内1人を右手に、もう1人を左手に置き、湖の中で必死に耐え抜きました。母親の身長と湖の深さが同じぐらいでしたので、母親は息ができなかったのです。どれだけ苦しかったことでしょう。
ようやく渡し舟が桟橋に近づき、事の重大さに気付いた人々がかけよって救助したものの、時はすでに遅すぎました。
子どもたちは助かったのですが、お母さんは湖の中で死んでいました。
キリストの犠牲は、わたしたち人類に対する神さまの大いなる愛を表しています。わたしたちは、これほどの大きな深い愛をもって愛されている存在なのです。
「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜ったことかよく考えてみなさい。」(ヨハネの第一の手紙3:1)と書かれています。
イエス・キリストの尊い血の代価が支払われたおかげで、罪の奴隷から自由の身となりサタンの子から神さまの息子、娘としていただけるのです。いつでも神さまは、「わたしに帰ってきなさい。」と呼びかけ愛の両手を大きく広げて待っておられます。
Comments